芥川龍之介「杜子春」には、「スターウォーズ」との共通点があることが解りました(;^_^A
- 日本文学
掲載日: 2024年01月14日
芥川龍之介「杜子春」は、1920年(大正9年)、雑誌「赤い鳥」に掲載された短編小説。
唐の時代の中国の伝奇小説「杜子春傳」を、芥川龍之介が童話化した作品です。
「杜子春」のあらすじ
主人公の若者、杜子春は、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を使い尽して、無一文になっています。
そんな境遇の杜子春が、ある老人に出会い、幾多の試練を経て、大事なことに気がついて行くのです。
「杜子春」を読み解いていきましょう。
2024年1月13日に開催された読書会で、「杜子春」を課題作品に取り上げました。
皆さんで声に出して輪読し、皆さんで語り合っていくと深読みができます。
一人で読んでいた時とは比較にならないぐらい沢山の発見がありました。
そのほんの一部をご紹介していきます。
「杜子春」は、神話の構造を踏襲している。
悠久の時を経て読み継がれている「神話」や「民話」、それに名作と評される多くの小説、映画には、ある共通点があります。
それは、物語の「構造」です。
ひどい境遇に陥った主人公が、ある人物に導かれて旅に出ます。
その旅の途中で幾多の試練を経験し、成長した主人公が元の場所に戻ってくるというもの。
これが、いわゆる「ヒーローズジャーニー」です。
この、簡単な構造が、あらゆる物語の骨子となっているのです。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
「杜子春」は、財産を使い尽して無一文になった主人公が、仙人である老人に出会い、幾多の試練を経て、成長し、元居た場所に戻ってくる物語。
まさに、典型的な「ヒーローズジャーニー」なのです。
芥川龍之介の巧妙な文章、その1。リフレインの妙。
芥川龍之介は、「新技巧派」と呼ばれるほど、文章には粋を凝らして、練り上げる作家です。
その巧妙な個所をいくつかご紹介いたします。
冒頭、こんな風に物語は始まります。
杜子春は相変らず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
無一文の杜子春の「なすすべもない様子」が、「門の壁に身をもたせて」という文章で表現されています。
そこへ、仙人の老人が現れます。
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、横柄に言葉をかけました。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な答をしました。
杜子春の「藁にもすがりたい気持ち」が、「思はず正直な答をしました」という文章で表現されています。
老人は言います。
「今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
その結果、大金持ちになった杜子春は贅沢な暮らしを始めます。
そして彼の周りには多くの取り巻きがやってきて、やがて、お金が底をつき、また無一文になります。
お金が無いと分るとそれまでの取り巻きは挨拶さえしなくなるのです。
そして、再び無一文になった杜子春は、
もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
今回の杜子春は、少し成長しています。
「どうしたらいいのだろうかという」気持ちが、「途方に暮れて立つてゐました」という文章で表現されています。
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた儘まま、しばらくは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐る恐る返事をしました。
杜子春の「再び金持ちになれないかを伺う気持ち」が、「恐る恐る返事をしました」という文章で表現されています。
今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
再び大金持ちになる杜子春。
でも結局は、同じことを繰り返して、無一文になるのです。
さて、三度目です。
洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇たたずんでゐたのです。
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
これまでの杜子春は、「ぼんやり空を眺め」るだけでしたが、今度は「三日月の光を眺め」ています。何かを胸に秘めていることが伺えます。
「お前は何を考へてゐるのだ。」
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
(中略)
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」
(中略)
「今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの――」
老人がここまで言ひかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮さへぎりました。
「いや、お金はもう入らないのです。」
そう、杜子春は無駄なお金の無意味さに気が付いたのです。
かくして、杜子春は、さらなる試練へと向います。
芥川龍之介の巧妙な文章、その2。ハッピーエンドを予感させる余韻の妙。
試練を潜り抜けてきた杜子春は、冒頭の「洛陽の西の門の下」に戻ってきます。
仙人の老人は杜子春にこう告げます。
「おれは泰山の南の麓ふもとに一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」
芥川龍之介「杜子春」(青空文庫)
贅沢な暮らしばかりしてきた、以前の杜子春でしたら、畑をもらったところで、それを耕すことなどしないことでしょう。
でも、今の杜子春は贅沢の無意味さや、お金の無意味さが身にしみてわかっています。
畑をもらうことで、慎ましくもまっとうな暮らしを実現できることが予感されるとても読後感の良い終わり方です。
その他にも、幾多の発見があります。
「杜子春」は童話とはいえ、読み込めば読み込むほど、実に巧みに練り上げられているということが解る傑作です。
そんなこんなをぜひ、読書会でお話ししましょう。