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森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」は、友人である乃木希典の殉死に捧げられた作品です。

森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」は、友人である乃木希典の殉死に捧げられた作品です。

掲載日: 2023年03月07日

「興津弥五右衛門の遺書」は、1912年(大正元年)「中央公論」に掲載された短編小説。
忠義のためとはいえ、同僚である家臣を殺めたことの責任を取り自害した興津弥五右衛門の心境を描いています。
江戸時代の随筆「翁草」にある「細川家の香木」が出典です。
森鴎外は、この作品をわずか5日で書き上げています。
なぜ、それほど急いで書かねければいけなかったのでしょうか。

「興津弥五右衛門の遺書」が書かれた経緯

乃木希典は、森鴎外が小倉へ左遷された際に唯一見送りに来てくれた友人。
恩義を感じてもおかしくはないでしょう

崩御した明治天皇の大喪の礼の当日、1912年9月13日に乃木希典は殉死します。
個人主義的な考えが広まり封建的な考えが払拭されつつある当時の人々は、
殉死を賛美する人々もいれば、進歩的な考え方をする若者の間では否定的な考えの人々もいました。

友人である乃木希典の殉死を汚されてはいけないと考えた森鴎外は
急いで、この作品を書き上げ発表したのです。

「興津弥五右衛門の遺書」は、こんな小説です。

冒頭、遺書と思しき候文で始まります。

某(それがし)儀明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿御墓前において首尾よく切腹いたし候事と相成り候。
しかれば子孫のため事の顛末書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。

興津弥五右衛門の遺書(青空文庫)

私は、明日切腹をしますが、これまでにどのような経緯があったかを子孫のために書き記す、というのです。
では、どんなことがあったのか・・・。

寛永元年五月安南船長崎に到着候時、三斎公は御薙髪遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事に御用いなされ候珍らしき品買い求め候様仰せ含められ、相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。

興津弥五右衛門の遺書(青空文庫)

寛永元年、長崎に外国からの船が入港した際、熊本藩の藩主細川三斎が、
茶事に使う珍しい品を買ってくるように家臣の興津弥五右衛門と横田清兵衛に命じ、二人は長崎へ向かいました。

幸なる事には異なる伽羅の大木渡来いたしおり候。
その伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、互にせり合い、次第に値段をつけ上あげ候。

興津弥五右衛門の遺書(青空文庫)

幸いにも珍しい伽羅があることを知った二人。。
けれども、本木と末木に分かれていて、先代から来ていた伊達家の家臣も手に入れようとしていました。、
互いに競り合い、値段が吊り上がっていきます。

もう末木でも良いと言う横田に対して、忠義に熱い興津は本木を献上することにこだわります。
口論になり、その挙句、興津は横田を斬ってしまうのです。

本木を手に入れた興津は、国元に帰り横田を斬ってしまったことを詫び切腹しようとします。
しかし、三斎公は主人の命に従って務めを果たした興津を許します。
興津はその後も命を懸けて細川家に仕えます。
そして、主君亡き後に、これまでの顛末を記した遺書を遺して殉死するのです。

森鷗外は「興津弥五右衛門の遺書」を書き、乃木希典に批判的だった白樺派などによって起こるであろう非難を抑えようとしたのです。
乃木希典の殉死が、近代化が進み個人主義が浸透していく当時の日本人に忘れかけられていた、明治以前の尊い感情を思い起こさせたのではないでしょうか。

それまで「現代物」しか書かなかった森鴎外は、これ以降「時代物」を書くようになります。

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