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太宰治「人間失格」は、太宰自身の人生を自己分析し、そして再構築して描いた作品なのです。

太宰治「人間失格」は、太宰自身の人生を自己分析し、そして再構築して描いた作品なのです。

掲載日: 2024年04月05日

「人間失格」は、1948年(昭和23年)雑誌「展望」6月号から8月号まで掲載された長編作品。
幼少期から青年期に至るまでの太宰自身の人生を振り返る自伝的な内容です。
が、実際の出来事のように見せかけてはいますが、読者を楽しませるために随所にフィクションを織り交ぜ、緻密に創作された凝りに凝った作品なのです。

文芸誌「新潮」1940年1月号に掲載された太宰のエッセイ「俗天使」には、その頃すでに「人間失格」の構想があったことが記されています。

私は、弱行の男である。私は、御機嫌買いである。私は、鳥でもない。けものでもない。そうして、人でもない。きょうは、十一月十三日である。四年まえのこの日に、私は或る不吉な病院から出ることを許された。きょうのように、こんなに寒い日ではなかった。秋晴れの日で、病院の庭には、未だコスモスが咲き残っていた。あのころの事は、これから五、六年経って、もすこし落ちつけるようになったら、たんねんに、ゆっくり書いてみるつもりである。「人間失格」という題にするつもりである。

太宰治「俗天使」(青空文庫)

実に8年もの間、温めていた作品なのです。
太宰治は、1948年(昭和23年)6月13日に入水自殺をします。「人間失格」は、その3か月前の3月より書き始め、5月に完成します。

「人間失格」を描き切ったことで、太宰治は思い残すことが無くなったかのように、その一か月後に旅立つのです。

「人間失格」を解説します。

「人間失格」は、「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」そして「あとがき」の4部で構成されています。読者を喜ばせるために実に緻密な仕組みで作られています。

順を追ってみていきましょう。

「はしがき」

まずは、この物語の発端が描かれます。
「私」が手にした三枚(三葉)の写真。そこには、ある男が写っています。
一葉は、その男の十歳頃の写真
その様子は・・・、

「なんて、いやな子供だ」とすこぶる不快そうに呟き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

第二葉の写真の顔は、高等学校時代の写真
その様子は・・・、

これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗かせ、籐椅子に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

そして、第三葉の写真の顔は最も奇怪なものです。
その様子は・・・、

小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。(中略)
見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

ここまでで、読者はかなり不気味な思いにとらわれているはずです。そう、この不気味な男の人生がこれから描かれていくのです。

「第一の手記」

「はしがき」の語り手は「」となっていますが、「第一の手記」からは、語り手が「自分」となっています。
一段下に卑下した呼称「自分」、その写真を「私」が見ています。つまり、太宰は自分自身の人生を見下すように書き始めているのです。

第一の手記は、主人公である「葉蔵」が、幼少期から小学校までの頃を思い出して、その頃の自分の心情を述懐しています。
太宰の初期の作品で、太宰自身の幼少期のことを描いた「思ひ出」を彷彿させます。

「思ひ出」では、育ての親であった叔母のことや、世話をしてくれた女中たけとの思い出がユーモラスに描かれ、そして悲しい別れ、使用人の少女みよとの淡い恋心が淡々と描かれています。
皆が喜ぶから「道化」つまり創作を覚えるようになるのですが、この第一の手記は、違います。悲壮感で溢れています。

自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。そこで考え出したのは、道化でした。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

つまり、人から疎まれないように、叱られないように、道化を覚えたのです。
冒頭に「恥の多い生涯を送ってきました」と記されているように、自らの人生を否定しています。

幼少期の行動の裏には、こんな悲壮な気持ちに満ち溢れていたことを踏まえて「思い出」を読み返すと、切なさがより一層増してきます。

「第二の手記」

中学へ進み、そして、思春期を迎えた高等学校時代の出来事が描かれています。
中学で、同級生の竹一に、道化を見破られてしまいます。

それからの日々の、自分の不安と恐怖。表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

「人間失格」に登場する男は、この竹一に限らず、すべからく、敵として描かれています。
それに対して、女は全員、味方として描かれています。葉蔵は竹一に対しても、さらに道化を演じます。

自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑を湛え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いました

太宰治「人間失格」(青空文庫)

道化を演じ続ける日々。やがて、女給のツネ子と出会います。
ここからは、ツネ子や、画学生堀木との人間模様が描かれ、ツネ子との心中へと帰着します。
心中するに至る心の動きが実に巧みに描かれていますので、ぜひ、読み込んでみてください。

心中事件の後、どのようになっていくのかは、初期の短編「道化の春」で描かれています。
主人公の名前は、同じく「大庭葉蔵」です。

「第三の手記」

心中事件の結果、葉蔵は、高等学校を追放されます。「退学」といわず「追放」と書かれていることが、太宰の自己否定がより一層強く感じられます。太宰の言葉選びの細やかさが見て取れます。

「第三の手記」の登場する男も、すべからく、葉蔵を否定します。そして逆に、女は自ら寄ってきて擁護します。太宰の持つ男と女のとらえ方が現れていますね。

葉蔵が住む家に遊びに来る画学生の堀木。
二人のやり取りはとてもユーモラスに描かれています。

堀木と自分。互いに軽蔑しながら附き合い、そうして互いに自みずからをくだらなくして行く、それがこの世の所謂「交友」というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」に違いありませんでした。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

太宰の作品は、その多くがユーモラスな描写があり、読者を楽しませることを信条としていた太宰の創意工夫が見て取れます。

「人間失格」にも、ユーモアな個所がありますが、それは、ユーモアを味わうためのものではなく、その後に待っている悲しみを引き立たせるためのものです。
友人と感じていて、楽しく交流を続けていた堀木ですが、ついに内心を表してしまいます。

「おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」
ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂わば「生ける屍しかばね」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでした

太宰治「人間失格」(青空文庫)

これ以降、ユーモアが消失していきます。ひたすら悲壮な出来事が綴られ、薬物に溺れていく様が描かれていきます。
そして、ついに精神病院へ入院させられます。

自分は自動車に乗せられました。とにかく入院しなければならぬ、あとは自分たちにまかせなさい、とヒラメも、しんみりした口調で、(それは慈悲深いとでも形容したいほど、もの静かな口調でした)自分にすすめ、自分は意志も判断も何も無い者の如く、ただメソメソ泣きながら唯々諾々と二人の言いつけに従うのでした。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

そして、ついに「人間失格」の烙印が押されるのです。

或る病棟にいれられて、ガチャンと鍵かぎをおろされました。脳病院でした。
女のいないところへ行くという、あのジアールを飲んだ時の自分の愚かなうわごとが、まことに奇妙に実現せられたわけでした。その病棟には、男の狂人ばかりで、看護人も男でしたし、女はひとりもいませんでした。
いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人はいじんという刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

人間失格という烙印が、自分からではなく他の人から押されるのです。
やがて、廃人のような状態にまで落ち、そこで再びユーモアが登場します。

それから三年と少し経ち、自分はその間にそのテツという老女中に数度へんな犯され方をして、時たま夫婦喧嘩げんかみたいな事をはじめ、胸の病気のほうは一進一退、痩せたりふとったり、血痰が出たり、きのう、テツにカルモチンを買っておいで、と言って、村の薬屋にお使いにやったら、いつもの箱と違う形の箱のカルモチンを買って来て、べつに自分も気にとめず、寝る前に十錠のんでも一向に眠くならないので、おかしいなと思っているうちに、おなかの具合がへんになり急いで便所へ行ったら猛烈な下痢で、しかも、それから引続き三度も便所にかよったのでした。不審に堪えず、薬の箱をよく見ると、それはヘノモチンという下剤でした。
自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」
と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。「癈人」は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。

太宰治「人間失格」(青空文庫)

幸福も不幸もなくなっり、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」という心境になったことが、ハッピーエンドのように私には思えてならないのです。

「あとがき」

「私」が見た写真が、葉蔵であることが語られます。
そして、三枚の写真と、三冊の手記を入手した経緯が語られます。
実に巧みな構成ではないですか。太宰治の天才たる所以です。

そして、最後は、こんな言葉で締めくくられます。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

太宰治「人間失格」(青空文庫)

太宰は最後の最後で自分を肯定しています。しかも「味方」である女性の言葉によってです。
この一文があるが故に、読後感が少し暖かくなっているのです。

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