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文豪名鑑07-明治の男の生きざまをリアルに活写する作家、森鴎外。

文豪名鑑07-明治の男の生きざまをリアルに活写する作家、森鴎外。

掲載日: 2024年07月08日

明治時代を代表する文豪といえば、森鴎外。
「舞姫」の作者として、知らない人はいないぐらいの大文豪です。
また軍医としても、最高位である軍医総監まで昇りつめたエリート中のエリートです。
そんな突き抜けた二足の草鞋を、驚くべきことに最高のパフォーマンスでこなします。

とはいえ、そこには多くの苦悩が絶えないことになるのです。
そんな森鴎外の人生を探っていきましょう。

森鴎外ってどんな作家?

文語調の文章や候文、はたまた現代の作家が書いたかのような文章も書きこなすことができる文豪。
凡百の作家には到底できることではありません。
一重に高い教養を身に着けているからなせる業です。
千変万化の文章で鴎外は自らの思想を表現していきます。

それでは、順を追って鴎外の辿った軌跡を見ていきましょう。

藩医としての期待を一身に受けた幼少期

■森鴎外は、1862年2月17日(文久2年1月19日)、現在の島根県鹿足郡津和野町で生まれます。
森家は代々津和野藩の典医を務め、跡継ぎとして誕生したのです。

将来は森家の屋台骨として生きることを期待され、そのため幼少期から英才教育が始まります。
9歳ですでに漢文を読みこなしオランダ語までも習っていました。

■1872年(明治5年)、廃藩置県により、津和野藩が無くなり、学ぶべき藩校も閉鎖となったため、それを契機に10歳の鷗外は父と上京し、墨田区東向島に居を構えます。
翌1873年(明治6年)、家族全員が津和野を離れ、千住にて医院を開きます。

■同年11月には、11歳の鴎外は、東京医学校医学本科予科(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学します。
この時すでにドイツ語やオランダ語は堪能であったというから驚きです。

■1881年(明治14年)、19歳で東京医学校本科を卒業。
その頃の鷗外は、家業である医院の手伝いをしています。
その様子は明治44年に発表された短編小説「カズイスチカ」に描かれています。

ところが、鴎外は医者になることは考えず、文筆家としての道を考えています。
結局は、同期生の勧めもあって鷗外は、同年12月16日に東京陸軍病院に勤務します。

■1884年(明治17年)、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられます。


ベルリンでは、北里柴三郎とともにコッホの衛生試験所にて学びます。

ドイツでの生活は、鴎外に大きな影響を残します。
日本での封建制度に縛られた閉鎖的な人間関係とは違い、社交的な「サロン」文化に触れる機会を得たのです。
その時の鴎外の心境は、明治44年に発表された短編小説「普請中」にてうかがい知ることができます。

文筆活動を開始、そして日本への自然主義文学の紹介。

■1888年(明治21年)には帰国し、文筆活動を始めます。
翌1889年(明治22年)に、フランスの自然主義の作家であるエミール・ゾラの「小説論」を翻訳し、読売新聞に掲載します。
日本にフランスの自然主義文学、リアリズムという概念を紹介しました。

■1890年(明治23年)「舞姫」を、文芸誌『国民之友』1月号に発表します。
日本人と西洋人との恋模様が描かれるなんて前代未聞の作品。当時の人々の驚きは想像に難くありません。
日本語には主語がないのが特徴です。
欧米の文化を良しとする明治の空気感ゆえ、文章をできるだけ英語に近づけようとし、「舞姫」は実験的に主語を加える試みがされています。

このように、海外文学の翻訳、小説の執筆、はたまた美術に造詣も深いため美術学校の講師を務めるなど多岐にわたる旺盛な文筆活動をします。
が、しかし鴎外の本業は軍医です。

当然のことながら上層部は、「医学」に専念しなさい、と何度も注意をしてきます。
そしてついに1899年(明治32年)小倉に第12師団軍医部長として左遷されてしまうのです。

温かいまなざしに目覚めた小倉時代。

■小倉での生活は、1902年まで、3年間の長きに渡ります。
ただ、この小倉での暮らしは鴎外にとっては、とても重要なものとなりました。

どうしてかと言うと、鴎外は、これまではエリート階級の世界にどっぷりいたため同じ階級の人々の暮らししか知る由はありません。
小倉での暮らしのおかげで、庶民の暮らしを知ることとなります。

それが功を奏したのか、これまでの鴎外は論争の種が絶えない人柄だったのが、角が取れたように穏やかになります。
一般庶民の暮らしぶりに触れ、人々への温かい眼差しを向けるようになり人間的に一回り大きくなっていくのです。

東京への帰還。

■1902年(明治35年)、3年間の小倉での生活を終え、鷗外は東京に帰還します。
春陽堂 アンデルセン「即興詩人」の翻訳を手掛けたのはこの頃です。
小倉時代で得た経験が、鴎外の文筆活動に一層拍車をかけたようです。

■1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで、鷗外は日露戦争に軍医として出征します。

■1907年(明治40年)、軍医のトップである陸軍軍医総監に昇進します。
文筆活動を以前にも増して続けているにもかかわらずも、すさまじい勢いでの昇進です。
鴎外がいかに優れているかが伺われます。

■1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任した鴎外は、上田敏、永井荷風と共に「三田文學」を創刊します。
文筆活動にますます拍車がかかるのですが・・・。

大逆事件、その影響とは。

■1910年(明治43年)大逆事件が起こります。
それを契機に、無政府主義者や社会主義者を根絶すべく、疑わしき人物の検挙が始まります。

鴎外は、権力サイドの人間であり、検挙する側の人間です。
が、一方で鴎外は表現者でもあり、個々人の表現への迫害を好ましく考えておりません。
この頃の鴎外の苦悩は「沈黙の塔」「食堂」「蛇」などの作品に影を落としています。

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