
川端康成「雪国」は、駒子の美しさを描く絵画のような作品です。
- 日本文学
掲載日: 2023年02月10日
「雪国」は、1935年(昭和10年)から1947年(昭和22年)の13年間に渡って、「文藝春秋」、「改造」、「中央公論」などの文芸誌に連載された長編小説です。
日本人で知らない人はいないのでは?と思われるほど有名な作品ですが
実際に読了した人は、それほど多くはない作品でもあります。

読む前に知っておくべきこと。
1934年(昭和9年)に、新潟県の越後湯沢を訪れた川端康成は、
この時の体験を基に、この作品を書いています。
ただし、このことにより、多くの人が誤解をしていますが、
「島村」は、川端康成本人ではないのです。
川端康成は、「島村」について、このように述べています。
〈島村は私ではありません。
男としての存在ですらないやうで、ただ駒子をうつす鏡のやうなもの、でせうか〉と。
「島村」は、徹底的にひどい男として描かれています。
つまり、ひどい男に惚れていく女の悲しいまでに美しい様を浮かび上がらせるのです。
駒子以外の登場人物は、駒子を描くためだけの存在。
だから、葉子も島村も素性があまり描かれていません。
「雪国」は、駒子のけなげで清らかな姿を描き出す絵画のような作品なのです。

では、「雪国」の本文を見ていきましょう。
駒子との再会
妻子ある文筆家、島村は、一年ぶりに雪国の温泉宿に赴きます。
美しい芸者、駒子との再会を果たすために。
そんな冒頭の一文があまりにも有名で教科書にも載っていたりしますが
ボクは常々とんでもないことだと思っています。
学生が読むのはまだ早すぎます。
「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」
なんていう描写が、数ページ先にあるっていうのに・・・(;^_^A
電車に乗って雪国を訪れる島村は、美しい女性に居合わせます。
直接見てはいけないと思い、島村は窓ガラスに反射した女性の姿をただ眺めます。
この態度が、島村のすべてを表しています。
島村は、深みにはまることをせず、ただ浅瀬を行くだけの男なのです。
そんな島村が駒子に会うことで、深みに入っていく・・・。

心を奪われる島村
島村が駒子に惚れてしまうくだりが鳥肌が立つほどよくできています。
島村の目の前で三味線の練習を始める駒子。
いつもと違う凛とした様子に目を見張る島村。
演じるは、「勧進帳」。
このドラマチックな演奏で、島村は心を奪われていきます。
次の曲は、艶っぽい「都鳥」。
そして、「黒髪」の幼げな演奏で甘える駒子。
演目だけで二人の心模様を映し出しているのです。
奔放な駒子の言動に心が動いていく島村。
なんとか「浅瀬」に留まりたいとする島村の心の葛藤が見事に描かれています。

深みに入っていく島村
東京に戻っていた島村が三度目の訪問をします。
駒子との約束では、2月に来るはずだったのに、なんと島村は11月にやってきたのです(;^_^A
駒子はもう怒っていますねぇ。
「一年に一度来る人なの?」と憤懣やるかたない様子。
島村が最初に駒子に出会ったのは、新緑の季節。明るく開けた感じです。
二回目に会うのが、雪深い真冬。ここで、結ばれるのです。
さらに三回目は、秋。郷愁を誘う気配です。
そのまま長逗留をして雪の季節に。
幻想的で閉ざされた世界です。
時系列にすると、島村が深みにはまっていく感じがよく出ています。
島村の葛藤
縮織の着物を雪の上に晒すエピソードが3ページに渡って描かれています。
こんなにもページを費やしているということは、
このエピソードは、とても大事なことなのです。
同じ雪国でも、駒子のいる温泉のある村とは、様相の違う縮織の産地。
駒子のいる雪国のものではなく、駒子とは別な世界をイメージさせるものなのです。
夏に着ていた間に、着物についた汗などの汚れを雪の上に晒して汚れを落とす縮織の里。それゆえ、愛欲に溺れそうな島村は、駒子のことを忘れるために縮織の里へ向かいます。ここには尼寺すらあります。まさに、島村から俗世間のことを拭い去るかのようです。
ところが・・・。
戻ってきた島村の車に、飛び乗る駒子。
すべてを見透かしたかのように「どこへ行った?」と甲高く言う駒子。
巧みな文章の構成に感服してしまいます。
ここまで読んでくると、おぼろげながら、描き方のパターンが見えてきませんか?
ストーリーとは、直接関係がなさそうな情景描写があり、
それを読んだ読者は、何らかのイメージを思い描く。悲しいとか、清らかとか。
そのイメージこそが、直後に始まるエピソードで、読者に想起させたい感情なのです。
そして、ここから一気にクライマックスへ向かっていきます。
火事が起こったことに気が付く、駒子と島村。
これ以降の文章にちょっと、異変が起こっていることに気が付きませんか?
わずか数行の文の中に「天の川」という単語が、繰り返し出てきます。
読者に何を想起させたいのか、想像してみてください。
そして、二人の行く末を想起させるかのように炎が燃え上がるのです。

新潮文庫P101に、こんな表現があります。
「腹の脂肪が厚くなっていた。」
これは、島村からの視点。
駒子の体に触れていることが伺えます。
そして次のP102には「内湯から上がって来ると・・・云々」
これが何を表しているか・・・。
情事を具体的に直接的に描くことなく暗に含むように描き出しています。
説明的な文章では描かず、じつに巧みに、抒情的な表現をしているのです。
川端康成はこんな離れ業ができる作家。
ですから、読み手に「男と女の経験」が少ないと、描かれていることが理解できません。
ここで描かれていることが解るかどうか。
アナタの人生が試されます(;^_^A
