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文豪名鑑01-すべてを俯瞰してみることができる作家、三島由紀夫。

文豪名鑑01-すべてを俯瞰してみることができる作家、三島由紀夫。

掲載日: 2022年11月27日

皆さんは、「三島由紀夫」という作家にはどんなイメージがありますか?
割腹自殺を遂げた人物というイメージが強すぎて、
極端な思想を持った人と思われる方も多いかと思いますが、私はそうは思いません。
むしろ、極めてバランス感覚の取れた知的な人で、物事を俯瞰してみることができる懐の広い人物だと感じています。

三島由紀夫って、どんな作家?

1925年(大正14年)の生まれ。
作家としての活動時期は、戦後1940年代になってからです。
幼少の頃より、日本の古典や伝統芸能などの英才教育を受け、
溢れる教養から紡ぎだす文章は理知的で極めて明確です。

耽美的な純文学作品だけではなく、SF、戯曲、恋愛小説など、
自ら実験をしているかのような多岐にわたる作品を残しています。

三島由紀夫が、作家として自立するまでに、どのような人生を送ったかを知ると、
彼の残した作品に見事にリンクしていることが解ります。

三島由紀夫という人間が出来上がる、学生時代。

三島由紀夫が、幼少期から学生時代にどんな体験をしてきたか。
これを知ると、如何に多くの作品に、その影響が及んでいるかがわかります。
三島作品を深く読むためには、この時代の体験を知る必要があります。

祖母による英才教育を受けた幼少期。

生まれたのは、1925年(大正14年)。
本名は、平岡公威(きみたけ)です。
生誕地は東京市四谷区。

超エリートぞろいの家に生まれています。
祖母、夏子は徳川家の血を引く武家の家柄。
祖父、定太郎は、帝国大学法学部を卒業した内務省の官僚。
母、倭文重は、加賀藩藩主、前田家に仕えていた儒学者・橋家の娘。
父、梓は、帝国大学法学部を卒業した農林省の官僚。
錚々たる家柄です。

幼少期は、祖母に育てられています。
病弱だったためか、外で男の子らと遊ぶことは禁じられ、
もっぱら、家の中で女の子と遊ぶことを強いられていたようです。
その一方で、高尚な英才教育がなされています。
歌舞伎、能楽などの伝統芸能や、谷崎潤一郎、泉鏡花などの文学作品を学び、
辞書を丸々覚えるほど、日本語の教育が行われました。

詩歌を創作した学習院初等科の頃。

19315年(昭和6年)、6歳になると、学習院初等科へ入学します。
学習院は貴族階級の子息のための学校。
一般家庭である平岡家が入学するためには、紹介者が必要です。
祖母の叔父である松平順康(上野東照宮の宮司)が紹介者となっています。
短編小説「神官」「好色」「怪物」「領主」のモデルとなったのが松平順康です。

三島の言葉に、
少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入ったものと思われる
とあるように、この頃は、詩歌を創作しています。
この頃の創作の様子は、短編小説「詩を書く少年」に描かれています。

当時の軍国主義的な世相から学習院の雰囲気は、硬派が主流を占めていました。
そんな中、文芸部に所属し、詩歌の創作に打ち込むことで、虚弱体質であったことも災いし、いじめの対象となっていたようです。

1936年(昭和11年)初等科6年生の時に、二・二六事件が起こります。
二・二六事件にリアルタイムで触れることで、
三島の記憶に何かが刻まれたのではないでしょうか。

1938年(昭和13年)には、祖母に連れられ、歌舞伎や能を観劇しています。
これ以降、三島は古典芸能に夢中になっっていきます。

「三島由紀夫」が誕生する学習院中等科。

1941年(昭和16年)中等科5年生で短編「花盛りの森」を発表。
国語教師、清水文雄の推薦で、日本浪漫派の文学雑誌「文藝文化」への掲載が決まります。

当時、父親が文学活動を禁じていたため、本名を使うことができず、ペンネームを使って雑誌掲載をすることとなります。
その時に決めたペンネームが「三島由紀夫」です。
それ以降、「三島由紀夫」を名乗ることとなるのです。

1941年、主にヨーロッパで行われていた第二次世界大戦に日本が参戦し、太平洋戦争が始まります。

同人誌の仲間が次々と召集令状を受けます。
「日本のあとのことをおまえに託した」と言い残され、日本の行く末と天皇を託された形となるのです。

このことは、三島由紀夫の心にしっかりと刻まれていることは間違いないことでしょう。

軍国主義から拒まれていく帝国大学時代。

1944年(昭和19年)、父親の説得で東京帝国大学法学部法律学科に入学します。

文学部への進学を望む三島にとっては、不本意な進路です。
けれども、結果的には、法律を学んだことは、三島の文章に論理性をもたらすこととなりました。
後に、三島自身が父親に感謝の意を表しています。

1945年(昭和20年)ついに入営通知の電報が届きます。
死を覚悟した三島は、〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪を用意しました。
兵庫県富合村高岡廠舎へ出立しますが、気管支炎を患い、帰京することとなります。

軍に受け入れられなかったことは、三島にとって生涯コンプレックスとなり、
常に死を意識する死生観や、戦後は「余生」という感覚を抱かせることになるのです。

そして、迎える終戦。
負けるはずのないことを信じていた三島にとって神風は吹きませんでした。

戦後、さらに拒まれていく三島。そして、川端康成との出会い。

敗戦国となった以上、戦後においては、日本を賛美することは許されません。
戦時中に三島が属していた日本浪曼派は、「日本伝統への回帰」を提唱するため
戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾されます。

日本浪漫派の中では、天才と称賛されていた三島は、
時代から取り残された焦燥感を味わうことになるのです。

そんな中、1946年(昭和21年)、筑摩書房に「花ざかりの森」などの原稿を持ち込みますが、顧問の文芸評論家、中村光夫は採用しませんでした。
一方、川端康成は、雑誌「人間」の編集長に原稿を見せ、「煙草」が掲載されことになります。
川端康成との出会いで、職業作家としての第一歩が築かれ
「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」という思いから、それ以後、川端康成とは生涯に渡り交流が続きます。

いよいよ、職業作家として活動を始める。

1947年(昭和22年)、東京大学法学部法律学科を卒業。
大蔵省の役人となります。

一年ほどで、役所の仕事と執筆活動を両立させることが肉体的にも、精神的にも困難になり、
大蔵省を退職し、作家として自立します。

自立後の第一作目は、河出書房から依頼された「仮面の告白」。
これまでは、架空の人物の人生を描く作業をしてきたが、
満を持して、自らの人生を描き出していくのです。

これまでの借りを返していく「余生」。

ここまでの人生で、三島由紀夫は様々なコンプレックスを抱えてしまいます。
貧弱な肉体、軍国主義からの拒絶、そして、正義が叶わなかったこと、などです。
作家として、確固たる地位を得た三島は、これまでのコンプレックスを克服していくのです。

肉体改造への想い

職業作家として、幾多の作品を発表していく三島。
肥大していく感受性に比べ、肉体はひ弱なままです。

三島由紀夫は矛盾を感じています。
精神面と肉体の均衡を求め、広い世界を見たいという思いから、
半年間の世界一周の旅に出ます。
旅の中で、三島は〈自分の改造といふこと〉を考え始めます。

そして、三島は古代ギリシャ彫刻の肉体と知性の均衡に活路を見出します。
後に、古代ギリシャ恋愛劇「ダフニスとクロエ」を基に「潮騒」を描くのです。

「金閣寺」を発表。そして迎える円熟期。

30歳となるころ、三島はボディビルで、自らの体を鍛え始めます。
と同時に、文体も森鴎外的な硬い文体に鍛え上げていきます。

その鍛え上げた文体により、1956年(昭和31年)、「金閣寺」を発表。
「金閣寺」は文壇や評論家からの高い評価を得て、
三島由紀夫は、文壇の寵児となり、最高の円熟期を迎えるのです。

「憂国」を発表。国を憂う気持ちへの決着をつけることに。

1961年(昭和36年)、少年の頃に垣間見た二・二六事件を題材にした「憂国」を発表。
「憂国」では、決起に加われなかった士官の壮絶な最期を描いています。

少年の頃の、ひ弱な体を打ち消すかのような強靭でたくましい肉体を手に入れた三島。
残されたコンプレックスは、
「軍国主義からの拒絶」、つまり、日本を守ることに加われなかったことです。

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