幾多の不安を小説に昇華させ続ける男、フランツ・カフカ-海外の文豪名鑑01
- 海外文学
掲載日: 2023年04月15日
カフカ、という名前を聞いて多くの人が思い浮かべるのは「変身」ではないでしょうか。
ある朝、目覚めると虫になっていた、という不思議な物語です。
では、どうして、こんな不思議な物語を書くに至ったのでしょうか。
それは、カフカの歩んできた人生を知ると、合点がいくかもしれません。
フランツ・カフカってどんな作家?
カフカは、1883年、現在のチェコで生まれたユダヤ人作家。
保険局の役人として働きながら作品を書き続けた作家です。
そして、恋多き男。
生涯に渡って何人もの女性と浮世を過ごし、仕事に執筆にと多忙を極めていました。
そんな暮らし振りを嘆くかのように悪夢を暗示させる作品を残しているのです。
多くの作品にみられるモチーフは果てしなく続く悪夢。
そして、さまざまな解釈ができる寓話。
カフカの作品は、これまでにないユニークなものゆえ、20世紀の文学を代表する作家として評価されています。
そんなフランツ・カフカの人生を見ていきましょう。
拒絶される日々を過ごす子供時代。
カフカは、1883年(明治16年)にオーストリア=ハンガリー帝国領プラハ(現在のチェコ)に生まれます。
父親は小物商を営むヘルマン・カフカ、母親は資産家の娘ユーリエ。
二人ともユダヤ人です。
3人の妹がいましたが、打ち解けることができず、また、両親は仕事の忙殺されていたため、カフカは孤独な幼少期を過ごしています。
強権的で横暴な父親、そして、そんな父親につき従う母親。
普通の家庭では、母親の愛情に助けられながら強い父親に抵抗し、たくましく育っていくものですが、カフカにはそんな境遇はありませんでした。
内気でおずおずとした性格となるのは仕方のないことだったのかもしれません。
そして、この幼少期の境遇は、のちの作品へ大きな影響を遺すことになるのです。
1893年、10歳のカフカは、プラハにあるギムナジウム(中等教育機関)に入学します。
カフカはここでホメロスなどの古典作品や、ニーチェ、ゲーテなどの作品を習い覚え、作家になることを意識し始めるのです。
1901年、18歳のカフカはプラハのカール大学に入学。父親の希望を受け、法律を学びます。
大学では、終生の友人となるマックス・ブロートと知り合います。
マックス・ブロートは、カフカの良き理解者として、カフカの執筆活動を援助することになるのです。
多忙を極める暗黒の時代へ。
1906年、大学を卒業した23歳のカフカは、イタリアの保険会社に入社します。
仕事は多忙を極め、1日10時間の勤務のみならず、時間外労働と日曜出勤もこなしていました。
執筆の時間すら取れないため、転職をすることにし、マックス・ブロートの父親のコネで半官半民の「労働者傷害保険協会」に職を得るのです。
カフカの作成した書類は、現存し出版されています。
勤務時間は8時から14時までと短く、午後の時間を小説の執筆に当てる事ができました。
けれども、カフカは言います。
「恐るべき二重生活。逃げ道は狂気の外はない」と。
カフカにとって、執筆の時間がいかに大切であったかが伺えます。
カフカは、この仕事を35歳になるまで続けます。
それも肺結核が重症化し、働けなくなるまで・・・。
一家の稼ぎ手として、仕事を辞めることができなかったのです。
1908年、文芸誌にカフカの作品が掲載されます。
これは、マックス・ブロートの援助によるものであり、カフカにとっては初めての作品の発表となります。
1912年、カフカが29歳の時、初めての短編集「観察」が出版されます。
同年には「変身」の執筆を始めています。
カフカは言います。「変身」は悪夢である、と。
さらに言います。「ごく当たり前のことを書いているに過ぎない」と。
カフカにとっては、ごく当たり前の日常がすでに悪夢だったということなのでしょうか。
そして、当時の恋人である4歳年下のユダヤ人女性フェリーツェ・バウアーとの婚約が現実味を帯びてくると、執筆活動が妨げられるという不安から、関係を断関係を断ちます。
カフカにとっては、執筆の時間を確保することが何より大切だったのです。
結核の発症、そしてさらなる絶望へ。
1914年、カフカが31歳の時、「審判」の執筆を始めます。
いわれなき罪に問われた主人公ヨーゼフ・K。
その罪とは何であるのかを、ヨーゼフ・K.は探し求め彷徨います。
そして最後は、考えられる限りの最悪の結末を迎えます。
これが何を意味しているのか・・・、
カフカの置かれている境遇を想うと想像に難くないのではないでしょうか。
1917年、フェリーツェと2度目の婚約を交わします。
しかし会社での仕事と長時間の執筆による無理がたたり、肺結核を発症。
病気を理由に再び婚約を解消するのです。
翌1918年、肺結核の治療のため、保養所に入所したカフカは、
同じ病気で療養中のユダヤ人女性ユーリエ・ヴォリツェクと出会い交際を始めます。
結婚を考えるも、貧しい家柄のため父親から反対され結婚を踏みとどまることになるのです。
1920年、カフカの短編小説「火夫」のチェコ語への翻訳がきっかけで、
チェコ人の翻訳家ミレナ・イェセンスカと知り合います。
彼女は結婚しているのですが、カフカと近しい間柄になっていきます。
1921年、カフカが38歳の時、「断食芸人」の執筆を始めます。
以前は大人気だった断食芸人。だが時代の変遷と共に次第に忘れ去られてゆく。
この救いようのない物語は、カフカの心情を吐露しているかのようです。
翌1922年、病状が進み仕事が困難になり、ついに退職を余儀なくされてしまいます。
そんな状況下ですが、なんとカフカは新たな出会いをします。
25歳の女性ドーラ・ディアマントと共同生活を始めるのです。
けれども、生活が困窮する中で病状が急激に悪化し、ドーラとマックス・ブロートに付き添われながらプラハの実家に戻ります。
1924年、ドーラ、マックス・ブロートに看取られながらウィーン郊外のサナトリウムでカフカは死去。
41歳の誕生日の一ヶ月前のことでした。
ドレフュス事件がカフカに落とした影。
カフカは、一貫して、果てしない絶望に遭遇した人々の様子を描いています。
そこには、1894年にフランスで起こったドレフュス事件も影響も無視できません。
ドレフュス事件とは、フランス陸軍の大尉であるアルフレッドドレフュスがユダヤ人であるということだけで、スパイ容疑で逮捕された冤罪事件です。
この事件が起こったことで、以前からヨーロッパ中の人々の深層心理に潜んでいたユダヤ人への差別意識が浮き彫りになりました。
人々の心の中には根強いユダヤ人差別があり、ちょっとしたことでユダヤ人は迫害されてしまうということが白日の下に晒されたのです。
この事件をきっかけに、カフカも含めヨーロッパ中のユダヤ人が危機感を持つことになります。
カフカにとっての人生とは。
カフカは生涯に渡って、何人もの女性と交際をしています。
それこそ死ぬ間際まで女性が傍にいました。
ただ、彼は独身を貫いています。
家庭を持ち子供ができることで執筆の時間が無くなることを恐れたかのように。
大量の手紙、大量の公文書、そして多くの小説。
カフカは、執筆にその人生のすべてを費やしたかのようです。
ユダヤ人として生きることの不安を含め、幾多の不安を小説に昇華させていくことこそ、
カフカにとってしなくてはならないことだったように思えます。