太宰治『思い出』を読み説くヒントを解説|なぜ自らの生い立ちを描かなければならなかったのだろうか。
- 日本文学
掲載日: 2026年06月14日
『思い出』は、こんな小説です。
『思い出』は、昭和8年、太宰治が24歳の時に同人雑誌「海豹」に発表された、50ページほどの中編小説。太宰自身の選書による短編集『晩年』に収められています。
太宰自身の幼少期から、中学生の頃の「思い出」を描いている作品です。
が、全て実際の出来事をありのままに描いているわけではありません。
多くのエピソードは、読者が読んで面白く感じるように脚色が加えられています。
なぜ、脚色が加えられているのでしょう。
『思い出』を最後まで読むと、それが解ります。
そして、なぜ、自らの生い立ちを書かなければいけなかったのでしょう。
太宰の作品を読む前に、まずは、『思い出』を読むことを強くお勧めします。
太宰が自らの作品にどう向き合っているかが、見え隠れしているからなのです。
では、どのように見え隠れしているのかを探っていきましょう。

『思い出』を解説します。
第一章 幼少期から小学校まで
太宰が4歳の頃、明治天皇が崩御します。その時の様子が冒頭にあります。
叔母は、てんしさまがお隱れになつたのだ、と私に教へて、生き神樣さま、と言ひ添へた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな氣がする。それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。叔母は、そんなことを言ふものでない、お隱れになつたと言へ、と私をたしなめた。どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
「どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。」とあります。
これが太宰文学の総てを語っているような気がします。
つまり、わかっていながらもおどけて見せる「道化」です。すべてを客観視して描き出す点が太宰文学の特徴だからです。
さて、太宰の生家は、大地主の家で、大家族です。ところが・・・。
叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思ひ出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だつた筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにゐたと言つてよい。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
太宰は、叔母のきゑに育てられたのです。
そして、叔母のきゑが毎晩、昔話を聞かせてくれました。
その語りが太宰の体に染み込んでいきます。
太宰治が幼少期に出会った日本語が、叔母の語る読み聞かせの物語でした。
太宰の作品の文章を読んでみてください。
堅苦しい文章ではなくて、心地よいリズムのある「語り口調」のようではありませんか。

そして、6歳になると女中のたけ、が登場します。太宰文学の重要な人物です。
大傑作「津軽」で、再会が感動的に描かれていることで有名です。
六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を讀むことを教へられ二人で樣々の本を讀み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寢ながらたくさん本を讀んだ。讀む本がなくなればたけは村の日曜學校などから子供の本をどしどし借りて來て私に讀ませた。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
太宰が文学への萌芽が、ここで芽生えたのです。
さて、太宰は小学校へ入学します。どんな子供だったかというと、
學校で作る私の綴方も、ことごとく出鱈目であつたと言つてよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るやう努力した。さうすれば、いつも皆にかつさいされるのである。剽竊さへした。當時傑作として先生たちに言ひはやされた「弟の影繪」といふのは、なにか少年雜誌の一等當選作だつたのを私がそつくり盜んだものである。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
ここでも「道化」が出てきます。斜に構えてみる姿勢です。
さて、太宰は、父親が立てた芝居小屋で様々な興行を見に行きます。
観るだけでは飽き足らず、こんなこともしていたようです。
私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやつて見た。私は前からこんな催物が好きで、下男や女中たちを集めては、昔話を聞かせたり、幻燈や活動寫眞を映して見せたりしたものである。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
太宰は周りの人を喜ばせたいのです。
太宰が、どのような姿勢で作品を書いているのかが、このエピソードから判ります。
つまり、読者を喜ばせよう、ビックリさせようと趣向を凝らすのです。

第二章 中学時代
ちやほやと育てられた太宰が、中学へ行き最初の挫折を迎えます。
私は入學式の日から、或る體操の教師にぶたれた。私が生意氣だといふのであつた。この教師は入學試驗のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷けられた。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
その頃の太宰の心境が描かれています。
私は散りかけてゐる花瓣であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
そして、決して図太い性格を持ち合わせていない太宰が辿りついた結論が描かれています。
私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて滿足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。
太宰治「思ひ出」(青空文庫)
太宰に、作家として創作を行う気持ちが芽生えていくのです。
それは、読者を喜ばせるためでもあり、自らを守るためでもあるのでしょう。
では、なぜ、太宰は自らの生い立ちを描いたのでしょうか。それも『晩年』という作品集の中の最初の作品として。
太宰は、こんな言葉を残しています。
小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのである。(中略)きょう迄の生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。
太宰治『東京八景』(青空文庫より)

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