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文豪名鑑03-ミューズを追い求めた作家、谷崎潤一郎。
- 日本文学
掲載日: 2023年01月13日
多くの人が持つ谷崎潤一郎の作品のイメージは、
「女性への耽美的な偏愛」でしょうか。
もちろん、谷崎の描く世界は、芸術性溢れる女性礼賛の作品が多いです。
けれども、谷崎が描きたい「本質」はそれだけではないような気がします。
谷崎潤一郎って、どんな作家?
1886年(明治19年)の生まれ。
作家としての活動時期は、明治の末1910年(明治44年)からです。
その後、大正期を経て1965年(昭和40年)まで、実に55年もの長きにわたって創作を続けています。
ストーリー性のある面白い作品が多く、
事の起こりから終わりまでをきちんと論理的に設計して描かれています。
加えて「完全なる文章」と相まって、とても解りやすい作品が多いのです。
谷崎は、女性への偏愛を描くと同時に「愚かなもの」を描いています。
真正直に清く正しく生きる人物を描く気なんてさらさらないようです。
人間とは愚かな生き物であることを知っているのです。
だから、愚かに、愚直に生きる人物像を生涯描いたのではないでしょうか。
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東京での迷走の時代。
江戸文化への憧れ。
谷崎潤一郎は、1886年(明治19年)東京は日本橋人形町の実業家の家に生まれます。
江戸の名残りが色濃く残る人形町で育ったことは、谷崎の原風景となったようで
初期の作品には、江戸っ子弁が散見し江戸文化への憧れがくっきりと影を遺しています。
小学校を卒業するころから、家業が傾き始め、進学も危ぶまれていました。
けれども、「神童」とまで呼ばれていたほど成績優秀でしたので、
その才能を惜しむ教師の助言により、書生となって家庭教師をすることで自らの学費を工面しながら中学へ進学します。
旧制一高、東京帝国大学に進み、大学では、同人誌「新思潮」を発行します。
が、しかし、学費未納が続き、中退を余儀なくされます。
幸か不幸か、ここから、谷崎の作家活動が始まりを迎えます。
1910年(明治43年)短編小説「刺青」を「新思潮」に掲載。
上田敏、永井荷風らに絶賛され、脚光を浴びます。
永井荷風は、谷崎純一郎の文章が「完全であること」を指摘しています。
この点は、まさにそのとうりです。
谷崎潤一郎の文章を実際に読むと、実に解りやすい。
よどむところがなくすらすらと読めます。
文章のイメージするところが絵としてすぐに浮かんでくるのです。
そして、物語も論理的にきちんと設計されていますので、
とても分かりやすく面白いです。
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翌年1911年には、「少年」「幇間」「秘密」を発表。
これらの作品も永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立します。
当時の文学作品の主流は「自然主義文学」です。
田山花袋の「蒲団」や、島崎藤村の「新生」など、
作家自身の暗く鬱屈した生活を赤裸々に描いた作品。
そんな砂をかむような味気ない作品ばかりの中で、
谷崎の描く耽美的な作品世界は、文句なしに面白かったのです。
迷走する大正時代。
一躍文壇の寵児となった、谷崎。
普通の作家ならば、ここまで完成された技量、その才能をそのまま生かすことでしょう。
でも、谷崎は違いました。
大正期になると、西洋の文化がどっと日本に入ってきます。
自動車などの文明の利器のみならず、雑誌、演劇、映画、
そして、カフェ、ダンスホールなど、大衆が喜ぶモダンな文化が押し寄せてきました。
これまで江戸の文化にあこがれ描いてきた谷崎ですが、
怒涛の如く入ってきた西洋文化に触れて、
このままの路線でいいのかと試行錯誤を始めます。
新たなモチーフを探し始めるのです。
かくして、大正期の谷崎の作品はバラエティに富んでいます。
ホラー小説のような「人面疽」、社会的な風刺小説「小さな王国」など、
通俗的、大衆的で、とても谷崎作品とは思えないような作品が目白押しです。
さて、1914年から1918年には第一次世界大戦が起こります。
いざとなったら、人間は大量に人を殺してしまうという事態を目の当たりにした多くの芸術家たちは、多大な影響を受けて、これまでの文化を否定するようになっていきます。
けれども谷崎潤一郎は、何ら影響を受けていないように作品を作り続けています。
人間が「愚か」であることは重々承知しているからなのでしょうか(;^_^A
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さて、1915年(大正4年)、 谷崎は、最初の妻となる千代子と結婚します。
けれども、良妻賢母な千代を谷崎は良しとしませんでした。
そして、谷崎の気持ちは、同居していた、千代子の妹せい子に傾いていきます。
せい子は、男性を振り回すほどの小悪魔的な女性だったのです。
谷崎は、女性が上位にいないとダメなのですね(;^_^A
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不遇な境遇の千代子に同情する友人の佐藤春夫。
そんな様子を見た谷崎は千代子を譲ると約束します。
その後、せい子に振られてしまった谷崎は前言を翻してしまうのです。当然のことながら、佐藤春夫は激怒。絶好と相成ります。
せい子のことがよほど好きだったのでしょうか
せい子をモデルにした作品「痴人の愛」を、1924年(大正13年)に発表します。
関西へ転居。円熟の時代へ。
上方文化への憧れ
1923年(大正12年)、関東大震災が起こります。
当時、谷崎は箱根の山道でバスに乗車中で、その谷側の道が崩れるのを目にします。
関東には恐ろしくて住めないと思った谷崎は、この年に兵庫県西宮市に移り住むのです。
ここからの女性遍歴が複雑を極めるので、時系列で追っていきましょう。
1924年(大正13年)、神戸市東灘区に居を構え「痴人の愛」を発表。
1927年(昭和2年)、生涯のミューズとなる 根津松子と知り合います。
彼女は、大阪の綿布問屋の御曹司の妻です。
1930年(昭和5年)、千代子と離婚。そして千代子を佐藤春夫に譲るのです。
この事件は新聞に記事として載り「細君譲渡事件」として大騒ぎになりました。
1931年(昭和6年)、 古川丁未子(とみこ)と結婚。まるでアイドルのような美女です。
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1932年(昭和7年)、根津松子一家の隣に転居します。
当然のごとく、松子との関係が深くなり、丁未子と別居します。
この年、松子の綿布問屋が倒産の憂き目にあいます。
1934年(昭和8年)、松子の離婚を機に、はれて松子と谷崎は芦屋で同居するようになります。
谷崎は、ついにミューズを得ることができたのです。
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円熟期を迎える。
1932年(昭和7年)当時、
大きな問屋の奥様である松子は谷崎が崇め奉る対象でした。
谷崎が松子に送った書簡が残っています。
「潤一郎」という名前を使わず、下僕であるという思いで「順市」の名を使い、
「御気に召しますまで御いぢめ遊ばして下さいまし」としたためています。
1933年(昭和8年)、ついに谷崎は、代表作「春琴抄」を発表します。
円熟期を迎えた谷崎が、満を持して仕上げたこの文学史上に残る大傑作は、
松子を念頭に置いて書かれています。
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1935年(昭和10年) 離婚した森田松子と、はれて結婚します。
1943年(昭和18年)、月刊誌「中央公論」に「細雪」を発表します。
「細雪」は、大きな問屋の娘である松子ら、四姉妹の裕福な生活を描いた長編小説です。
当時は戦時中ですが、全くそんな気配は微塵も感じさせない別世界のような作品世界です。
軍部は不謹慎として、発禁処分にしますが、谷崎は描き続けます。
その後、1956年(昭和31年) に、「鍵」を発表。
1961年(昭和36年)には、「瘋癲老人日記」を発表します。
1965年(昭和40年)腎不全に心不全を併発して死去。享年80歳でした。
谷崎潤一郎が描いてきたもの。
「刺青」の冒頭には、このような文章があります。
其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、
「刺青」青空文庫より
世の中が今のように激しく軋きしみ合わない時分であった。
殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬように、御殿女中や華魁の笑いの種が盡きぬようにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。
谷崎潤一郎が、生涯を通して描き続けたテーマが垣間見えるようです。
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