JDサリンジャー「小舟のほとりで」は、偏見を持った大人たちのせいで、どれほど子供が傷ついてしまうかを描いています。
- 海外文学
掲載日: 2023年10月01日
「小舟のほとりで」は、1949年、サリンジャーが30歳の時、文芸雑誌「ハーパーズ」に掲載された短編小説です。
裕福なユダヤ人の家庭の一人息子ライオネルが耳にした、父親を侮辱する言葉。
それを慰める母親。二人の交流を描くことで、サリンジャーは何を描きたかったのでしょうか。
「小舟のほとりで」を解説します。
サリンジャーの作品を読むときに、「謎解き」をする必要なんてありません。
サリンジャーは、エンタメ小説のように読者に「謎解き」を仕掛けようと意図して作品は作ってはいません。
戦争での過酷体験を乗り越えて、祈りのように身を削るようにして描いている作品が、「謎解き」エンタメ小説のはずがありません。
どのように読めばいいかというと、丁寧に文章を読み、感じたままを受け取ればいいのです。
ただ、間違った解釈をしないためには、当時のアメリカの文化を知る必要があります。
「小舟のほとりで」を読み解くカギは、一般的なアメリカ人がユダヤ人に対してどんな感情を持っているかということです。
こればっかりは、実際にアメリカに住んで、生活してみないと分らないことです。
その点が、サリンジャーの作品が日本人には難解だと思われる理由の一つです。
そこを踏まえて、冒頭から読んでいきましょう。
秋も終わりに近いある小春日和の昼下がり、四時を少し回った頃であった。(中略)メードのサンドラが台所の湖に面した窓際から、またもや口をキュッと結んで引き返してきた。何かを思い詰めている様子で(中略)
「小舟のほとりで」(新潮文庫)
「あたしゃくよくよしないよ」サンドラは、これが五度目か六度目であろう、ミセス・スネルに向かって、と同時に自分にも言い聞かせるようにして、そう言った「あたしゃもう決心したんだからね。くよくよしないって。バカバカしい」
メードのサンドラは、何か失敗したようで、それを、くよくよ気に病んでいます。
聞いている相手は家政婦のミセス・スネル。
彼女は、一日の仕事を終え、バスで自宅に帰るところです。
ミセス・スネルは言った。「気にしたからって、なんの得になるっていうのよ。どっちみち、あの子が告げ口するかしないか、二つに一つでしょ」
「小舟のほとりで」(新潮文庫)
どうやら、子供に「聞かれてはいけないこと」を聞かれた様子です(;^_^A
そんなサンドラですが、次にこんなことを言います。
「ニューヨークに帰りたいなぁ。こんなイカレタとこなんて、あたし、大嫌いさ」そう言って彼女はミセス・スネルを憎らしそうに見やった。「あんたはいいだろうさ、一年中ここで暮らしてんだから。
「小舟のほとりで」(新潮文庫)
実際にこの地に住んでいるミセス・スネルに向かって、「こんなイカレタとこ」と言っています。
つまり、サンドラは、人の気持ちを考えないで軽口を言ってしまう人物なのです。
さぁ、そこへ、この家の女主人であるブーブー・タネンバウムが入ってきます。
サンドラとミセス・スネルはどちらも黙り込んでいる。ミセス・スネルがおもむろに煙草の火をもみ消した。「サンドラ・・・」「はい、奥様」そいう言いながらサンドラは、ミセス・スネルの帽子の陰から窺うように女主人の方を見やった。
「小舟のほとりで」(新潮文庫)
とても気まずい雰囲気だということが伝わってきます。
ミセス・スネルが言います。
「ライオネル坊ちゃまがこれから家でなさるんですって?」そう言って彼女は短く笑った。「どうもそうらしいわ」ブーブーはそう言うと、ジーンズの尻のポケットに両手を突っ込んだ。
「小舟のほとりで」(新潮文庫)
ライオネルは多感な子供のようです。これまでも何度も些細な家出を繰り返しています。
今度の家出は、メイドのサンドラが口にした言葉が原因のようです。
ライオネルは、いったい何をサンドラから聞いたのでしょうか。
サリンジャーが言いたかったこと。
ユダヤ人に対して、英語圏の人々が持つ「偏見」。多くの人が心に抱いているがゆえ、つい口に出してしまうのでしょう。
サリンジャー自身もユダヤ人です。家族や自分自身にこころない言葉を向けられたことがあったのかもしれません。
この作品では、心無い大人の一言で、子どもの心がどれほど傷ついてしまうのかを浮かび上がらせているのです。