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文豪名鑑04-寂寥感を描き出す作家、川端康成。

文豪名鑑04-寂寥感を描き出す作家、川端康成。

掲載日: 2023年02月12日

川端康成は、日本人なら、その名を知らない人はいないのではないでしょうか。
また、「雪国」「伊豆の踊子」などの作品名も一度は耳にしたことでしょう。
それほど有名な作家ですが、
作品を実際に読んだことがある人が少ないのではないでしょうか。
そのため、多くの人が持つ川端康成のイメージは、作品のタイトルから、「日本の美」を描く作家のようです。
けれども、川端康成が描く作品世界は、そんなに清楚なものだけではありません。

川端康成ってどんな作家?

1899年(明治32年)の生まれ。
作家としての活動時期は、大正末期の1921年(大正10年)から
戦後、1972年までの実に50余年の長きにわたっています。

決してストーリーを重視する作家ではありません。
いろんなエピソードや情景描写の積み重ねで、何かを浮き上がらせていきます。
まるで、絵画を描いているかのようです。

そして、得ることのできない「愛」を描いた作品が多いため
読後感がしんみりとした寂寥感に浸る印象があります。
その文章は、繊細を極め女性性が宿ったかのようです。

そんな川端康成の人生を見ていきましょう。

愛する人々を失い続ける寂寥の時代。

相次いで肉親を失う幼少期

川端康成は、1899年(明治32年)に大阪府大阪市に生まれます。
医師である父・川端栄吉(当時30歳)と、資産家の令嬢であった母・ゲン(当時34歳)の長男として、とても裕福な家庭で育ちます。

が、川端康成が2歳になる前に父が肺結核で死去
姉と共に大地主である母親の実家に預けられます。

さらに、3歳になる前に母が結核で亡くなり
両親を失い、父方の祖父母の家に引き取られることになります。
小学生の頃、祖母、そして姉が死去
川端康成は、祖父の二人暮らしとなってしまいます。

この当時の手記には、
父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛と
この一家の人々の愛とに生くるなり」と記されています。

中学生になってから作家になることを志し、文芸雑誌を読み始めます。
中学3年となった1914年(大正3年)、ずっと寝たきりであった祖父が死去
ついに、肉親がいなくなってしまうのです。

当時の心境をこのように書き残しています。

私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。

この時の病床の祖父を記録した日記は、後年「十六歳の日記」として発表されます。

川端康成が描く作品の多くに「寂寥感」が漂うのは、このような体験の故なのかもしれません。

1915年(大正4年)、中学校の寄宿舎での生活を始めます。
野上弥生子、谷崎潤一郎などの作品を読み、自ら作品を書き始めたのはこの頃です。

この寄宿舎生活で、同室の下級生、清野と寝床で互いに抱擁し合って眠り、その腕を抱いた時の温かさを日記に綴っています。決して得ることのできない遠い存在としての腕。
この体験を基に、後年の名作「片腕」が描かれることになります。

1917年(大正6年)帝大進学を志し、上京。
浅草の親戚宅に居候をし、第一高等学校の文科に入学します。
浅草の芸人たちを描く作品が多いのは浅草で生活をした故でしょう。

当時の浅草の様子

1918年(大正7年)秋、高校二回生の頃、伊豆へ約8日間の旅に出ます。
旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子と出会います。
旅芸人との温かい交流に心を打たれ、のちに、小説「伊豆の踊子」を生み出すことになります。

さらに、愛する人に裏切られる青年期。

この年、本郷にあるカフェ・エランで、可憐な少女女給、伊藤初代と出会います。
彼女との出会いや別れは、川端康成のその後の人生に消すことのできない暗い影を落とすことになるのです。

伊藤初代

川端康成は、1920年(大正9年)に第一高等学校を卒業し、
東京帝国大学文学部英文学科に入学します。

同年、文芸誌「新思潮(第6次)」の発刊を企画し、
第三次「新思潮」の同人である菊池寛に諒解を得ます。

これ以降、菊池寛から様々な援助を受けることとなります。
芥川龍之介や、横光利一を紹介してくれたのも菊池寛です。

菊池寛

翌1921年(大正10年)第6次『新思潮』を発刊し、「ある婚約」を掲載。

一度は、伊藤初代と結婚の約束をしますが、後日、伊藤初代から、
私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取ります。

初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人と結婚することにしたのです。
この出来事は、川端康成の心に暗い影を刻み、のちの作品に繰り返し描かれることになります。

1923年(大正12年)菊池寛が創刊した「文藝春秋」の横光利一と共に同人に加わります。
この年に、関東大震災が起こり、
浅草に居を構えていた川端康成は、吉原の地獄絵図のような被災状況を目にし愕然とします。

人々の生活をよくすると信じられていた科学文明。
西洋から取り入れられた科学は何の役にも立たなかったことを第一次世界大戦で見せつけられていた川端康成はこれまでの伝統的な文学からの脱却を図り、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。〉と論じています。

職業作家として第一線に踏み出す。

「新感覚派」の誕生。

1924年(大正13年)3月に東京帝国大学を卒業
横光利一、岸田國士らで同人雑誌『文藝時代』を創刊します。

この雑誌に集うメンバーは、これまでの表現方法(脚色は加えず正確に正しく描く)とは、全く異なる表現方法(現実にはあり得ないことや抽象的な表現など)を目指したため「新感覚派」と命名されました。

「文藝時代」は、前衛的な作風が特徴となり、プロレタリア文学の文芸誌「文藝戦線」と並んで、昭和初期の文学の主流となります。

1926年(昭和元年)、「伊豆の踊子」が「文藝時代」に掲載されます。
川端康成が高校生の頃に訪れた伊豆。
出会った旅の一座との交流が、とても思い出深かったのでしょう。
その時の体験を、リアルにつぶさに描いています。

この年、市谷へ転居し、その家に住み込みで家政婦をしていた松林秀子と出会います。
終生の妻となる女性です。

また、この年の春には、「新感覚派映画聯盟」を結成し、
日本初の前衛的な映画「狂つた一頁」のシナリオを書きます。

1929年(昭和4年)、浅草に転居し何種類もの小鳥や犬を飼い始めます。
この時の様子は、後年(1933年)「禽獣」として、発表されることになります。

名作「雪国」の誕生。そして、文壇の権威へ。

文壇での人脈も確立し、押しも押されもせぬ流行作家となった川端康成。
1933年(昭和8年)、岡本かの子から小説指導を依頼されます。
どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けるのです。

そして、翌1934年(昭和9年)、新潟県の越後湯沢を訪れます。
この時の体験を基に、名作「雪国」の執筆に取りかかります。

1935年(昭和10年)から、連作短編として「雪国」の第一話を「文藝春秋」に発表します。
「雪国」は、その後、掲載紙を変えながら戦後まで連載を続けてゆくのです。

「駒子」のモデルとなる越後湯沢の高半旅館の19歳の芸者・松栄

同年に、芥川賞と直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の選考委員となります。
1936年(昭和11年)川端の推薦により、癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄の「いのちの初夜」が「文學界」に掲載されます。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争の開戦を迎えます。
妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました。」と戦争の行く末を嘆いていたのです。

そして、迎える1945年(昭和20年)の敗戦。
川端は終戦のときの状況を下記のように記しています。
それは時自体が死に、失なわれた時期であった。そして人々は、混乱し、ばらばらに、国や個人の過去、現在、未来を眺めた。多くの人にとって、それは、狂った旋風に巻き込まれたようなものであった。みじめな光景は、この感じによく合っていた。廃墟のつきさすような焦げくさい臭い。圧迫するような静けさ。運命の化石した光景。山積された金属くずの赤さび。(かつて美しかった東京の信じがたい顔を描写したのち)限りない広さの廃墟が、砂漠のごとく至るところに拡がっているようにみえた。それは、希望のない単調なパノラマであった

1946年(昭和21年)、当時、大学生であった三島由紀夫の訪問を受けます。
三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作ることになるのです。

円熟期を迎える。

日本の美を描く

三島は川端について、このように語っています。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉

さらに、戦後の作品について、川端康成はこのように記しています。

敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。近代小説の根底の写実からも私は離れてしまひさうである。もとからさうであつたらう。

川端康成「哀愁」


斯くして、川端康成の描くテーマは「日本の美」となるのです。
明確にテーマが決まったからなのでしょうか、50代になってからの文筆の量はすさまじいです。

1947年(昭和22年)、約13年間を経て、「雪国」が完結されます。

1949年(昭和24年)、戦後の川端の代表作の一つとなる「千羽鶴」の連載が文芸誌に掲載されます。
さらに、同年「山の音」の連載が文芸誌にて始まります。
「山の音」は、戦争の時代の傷が色濃く残る家族を描いた名作として、日本文学の最高峰の作品となります。
そこには、川端康成の敗戦への想いが滲んでいます。

翌1950年(昭和25年)、「朝日新聞」に「舞姫」の連載を開始します。

舞台は敗戦後の日本。バレリーナとして活躍した母、そして母の遺志を継いだ娘。
その美しき生きざまを、醜い男たちによって浮かび上がらせていくのです。
そこには「魔界」という言葉が出てきます。
「魔界」とは、禅で言うところの「煩悩」。川端康成は、「魔界」の世界に入って行きます。

魔界の時代

1954年(昭和29年)、突如、これまでとは打って変わった問題作を発表します。
目に留まった美しい女性を追い続けるストーカー的な男の行動を描いた「みづうみ」を「新潮」に連載を開始し、読者を驚かせます。「舞姫」で片鱗を見せた魔界のテーマを主軸とした実験的な作品です。
この作品は、50代の代表作となるのです。

さらに、1960年(昭和35年)に「眠れる美女」を「新潮」に連載開始します。
この作品はその退廃性が芸術的と評価されフランスで映画化されています。

1961年(昭和36年)、朝日新聞に、「古都」の連載を開始します。
この作品は、これまで川端康成が描いてきた美しき日本の伝統を踏襲した作品です。

1968年(昭和43年)に、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定します。
受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」です。

そして、その4年後の1972年(昭和47年)に自死しています。

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