オンライン読書会のコミュニティ「本コミュ読書会」
読書会情報はコチラ

オンライン読書会のコミュニティ「本コミュ読書会」

文豪名鑑06-明治の女性の悲哀をリアルに活写する作家、樋口一葉。

文豪名鑑06-明治の女性の悲哀をリアルに活写する作家、樋口一葉。

掲載日: 2023年06月24日

女流作家の草分け的な存在として、つとに有名な樋口一葉。
代表作の「たけくらべ」や「にごりえ」の名前を、一度は耳にしたことがあるはず。
そんな明治時代の天才女流作家の人生を探っていきましょう。

樋口一葉ってどんな作家?

樋口一葉は、明治の中頃に作品を遺した女流作家。
遊郭の街、吉原界隈に居を構えていたため、その界隈で暮らす人々の人間模様、それも貧しいが故に逃げ場のない女性の悲劇を描いた作品が多いのが特徴です。

そして、もう一つの特徴は、リアルな心理描写です。

明治以前の小説は、「戯作」と呼ばれ、滑稽であったり、ショッキングであったり、わくわくする冒険であったり、ストーリーを描くだけに終わっていて、そこにはリアルで深い心理描写はありませんでした。

明治に入り、西洋化が進められ、小説も芸術たるには心理描写を描きこまなければいけないという流れが起こっていきます。
そのため、樋口一葉の作品は、人物の行動が情感を伴ってとてもリアルに描かれています。

そんな、樋口一葉の人生を見ていきましょう。

文学の素養を形成した幼少期

樋口一葉は、1872年(明治5年)東京府内幸町(現在の日比谷界隈)で生まれます。

下級役人である父、樋口則義と、母、多喜。
二男三女の次女として、経済的には恵まれた家庭で育ちます。

父、則義は、もとは甲斐の貧しい農民の出身でした。
侍になりたい志を立てて多喜と駆け落ちのような形で江戸へ来た後、縁あって武士階級になりました。

苦労の末、手に入れた「武士階級」ゆえ、武士としての自覚が人一倍強く、一葉にも武士の娘にふさわしい教育を身に着けさせようとしています。

1886年(明治19年)、則義は苦しいながらも家計を割いて、14歳の樋口一葉を、歌人中島歌子の名門私塾「萩の舎(はぎのや)」に入門させ、和歌や古典文学を学ばせています。

中島歌子

「萩の舎」は、徳川家などの名門家の子女が通う私塾で、最盛期には1000人もの塾生が通っていました。
ここでの学びが一葉の作品に厚みを持たせることになります。
樋口一葉の流れるように優雅な文章は和歌に根ざしているのです。

不遇の時代の始まり。

1885年(明治18年)に、兄、泉太郎が肺結核で死去します。
さらには、1889年(明治22年)には、父、則義が事業に失敗し、負債を遺したまま、死去します。

かくして、一家の稼ぎ頭を失ってしまい、
樋口一葉は17歳にして、一家を支えなければならなくなるのです。
1890年(明治23年)には、一葉が萩の舎の授業の手伝いをすべく中島家に住み込んで働きます。
その時の一葉の様子が文章で残されています。

和歌の月並会での一情景です。出席して見ますと、みんなの前におすしを配っている、縮れ毛で少し猫背の見なれぬ女の人が居りました。私は江崎まき子さんと床の間の前に坐ってべちゃくちゃお喋りをしておりましたが、ちょうど私たちの前へ運ばれて来たお皿に、赤壁の賦の『清風(せいふう)徐(おもむろ)に吹来つて水波(すいは)起らず』という一節が書いてございましたから、二人で声を出して読んで居りますと、若い女の人がそれに続けて『酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕(えうてう)の章を歌ふ』と口ずさんでいるではございませんか。 私たちは、顔を見合わせて『なんだ、生意気な女』と思っておりましたが、その人が他ならぬ一葉さんで、会が終って、帰るときに、先生から『特別に目をかけてあげてほしい』とお引合せがございました。一葉さんは、女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをなすった様子に見うけられました。

三宅花圃「思い出の人々」(青空文庫)

このように、塾の手伝いだけでなく女中のような下働きまでさせられたため、
一葉は、半年ほどで辞めます。

その後は、母と妹と3人での針仕事や洗い張りなどの内職をして生計を立てます。
その頃の樋口家はこんな様子だったようです。

父の歿後、一家はしばらく養子に行った次兄の許に身をよせたが、円滑にゆかなくて、一葉は自分だけ中島のところで暮した。その翌る年十九の夏子が母瀧子と十七の妹邦子とをひきとって、本郷菊坂につつましい一戸をかまえ、母娘三人の生活がはじめられたのである。
 元来家産があったのでもない則義が亡くなった今、十九の夏子がいかに大人びていたにしろ、どんな方法で生計を立ててゆこうと計画したのだろう。一二年の間はどうやら女三人の生活は営まれたが、三年経った二十四年の秋には、初めて親戚の家へ三十円借金をしたことが日記に出ている。貧は次第にはっきり牙をあらわしはじめた。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

職業作家、樋口一葉の誕生。

樋口一葉が、小説を書こうと考えるようになったきっかけは、萩の舎の先輩である三宅花圃(みやけ かほ)です。
三宅花圃は、明治維新を受けての没落してゆく上流階級の令嬢。
若くして亡くなった兄の葬儀費用を捻出するために小説を書くことを思いつき、小説「薮の鶯」を発行します。

私が風邪かなにかを病んで、女学校を休んでいたときでございましたが、なくなりました兄の一周忌が近づいて来るのに、その法事をするお金がないと母がこぼしているのを聞きました、ふと思いつきましたのが、小説をかいて法事の費用をつくろうということでございました。
当時評判の坪内逍遙さんのお書きになった『当世書生気質』という小説本をもって来てくれました。私は、その小説をよんで居りますうちに、これなら書ける、と思いまして一いきに書きあげましたのが『藪の鶯』でございました。

三宅花圃「思い出の人々」(青空文庫)

その当時、明治20年頃の日本は、福沢諭吉の啓蒙活動や新島襄のキリスト教教育などの文明開化を経た結果、若い女性の書いた小説も発表の場を与えられ世間が注目するようになっていました。

こうして出来た小説は、そのころ春廼屋朧といった逍遙の序文、中島歌子の序文、作者の序文をつけて金港堂から出版されました。
売れ行きが好調で、30円ほど(現在のお金にして60万円ほど)の原稿料を手にします。
女性による初めての近代小説の誕生です。

この出来事に触発されて、樋口一葉は小説を書くことで生計を立てようと決意します。
文筆で生計を立てる職業作家、それも女流作家の誕生です。

ただ、その道のりは苦難の連続となるのです。

1891年(明治24年)、「かれ尾花」という短い小説を書きます。
が、しかし、創作意欲に動かされて書いた作品ではなく、生活の必要に迫られて書いた作品にすぎず、小説というよりは一篇の作文にすぎないものでした。
萩の舎の師、中島歌子に提出して添削を受けるも、それきりになっています。

なかなか目が出ない状況ゆえ、一葉の小説に切なる期待をかけている母と妹、そして一葉自身は、到底穏やかな心持ちではなかったことでしょう。

小説の書き方を教わるべく、師を探していた一葉は、
友人のつてで、朝日新聞に小説を連載していた半井桃水(なからい とうすい)と出会うことになります。

桃水はこの次はこういう小説をかいて御覧なさいというような話しをしたり、一葉の生活の楽でないことから桃水自身の「貧困の来歴など残るくまなくつげ」たりして、その上に、お互に若い男女のつき合いと思えば面倒くさい、お互に「親友同輩の青年と見なしてよろづ談合をも」するからなどと云っている。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

貧しい身の上もざっくばらんに打ち明け、親身になって一葉にアドバイスをしている桃水。一葉が心惹かれていくのは仕方のないことなのかもしれません。

二年ごしひとりで苦しみながらあてもなく焦立っていた自分の小説について、桃水が新聞向きの作風ではないからと一葉の気質を鑑定した上、紅葉に紹介しようと云ってくれたことも、それこそが眼目で紹介されて来ている一葉にとって前途のひらけてゆくうれしさであったろう。母と妹とが、生活の上では彼女ひとりにとりすがって、息をこらし気配をうかがっているような負担を夜昼感じている一葉にとって、青年同士と思って語り合おうと云ってくれる男のひとのいることは、どんなにか頼もしく感じられただろう。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

1892年(明治25年)、半井は同人誌『武蔵野』を創刊。
一葉は『闇桜』を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表しました

この頃より使い始めた「一葉」というペンネーム。
そのいきさつにはこのようなやり取りが残っています。

一葉という号をきめたとき、花圃が大変いい名じゃありませんか、それは桐の一葉ですかと云うと、そうじゃない葦の一葉ですよ、達磨さんの葦の一葉よ、おあしがないからと小さい声で、これは内緒よと笑うという位の闊達な気持ももっている。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

「闇桜」につづいて「たま襷」、「五月雨」を同じ雑誌に発表しています。
が、しかし・・・。

一作二作と活字にはなっても反響がないので、一葉は深い不安と失望とで、自分にもし才能がないならば「今から心をあらためて身に応ずべきことを目論みたい」と「闇桜」をかいたとき桃水に相談したりした。どうしてそんなことを、とむしろおどろいて励ますが、一葉は依然として動揺した心持である。「女の身のかゝる事に従事せんはいとあしき事なるを、さりとも家の為なればせんなし。」そして何か思うところがあったらしく、俄に妹邦子について蝉表の内職につとめたりした。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

さて、桃水の家で、長火鉢一つを挾んでの指導の日々。
当然のごとく、世間では悪いうわさが流れ始めます。
一葉に対しては、節度ある態度で接する桃水。
それ以上のことはなく、一葉が最後の訪問をしたときなどにも、一葉に結婚をすすめているほどでした。

ところが、桃水との噂が更にたかまり、萩の舎の師である中島歌子からの助言に従い、桃水と絶縁することになるのです。

「我李下の冠のいましめを思はず、瓜田に沓をいれたればこそ」「道のさまたげいと多からんに心せでは叶はぬ事よと思ひ定むる時ぞ、かしこう心定りて口惜き事なく、悲しきことなく、くやむことなく恋しきことなく、只本善の善にかへりて、一意に大切なるは親兄弟さては家の為なり。これにつけても我身のなほざりになし難きよ」と、あわれに封建世俗に行いすました心がけに納まろうとしている。明治二十五年という日本の時代がもっていた旧さや矛盾と、一葉自身のうちにあった所謂模範生型の怜悧さがここに発露しているのである。

宮本百合子「婦人と文学」(青空文庫)

それまでの小説はと言えば、物語の面白さで読ませる江戸時代からの「戯作」に加えて、人間心理の描写に主題を置いたリアルな描写の「写実主義」が流行していました。
そんな中、明治中期には、森鴎外によりドイツ(ダンテなど)やイギリス(バイロンやシェリーなど)の「ロマン主義文学」が紹介され、花開いていきます。

1893年(明治26年)、ロマン主義文学の文芸雑誌「文學界」が刊行されます。
樋口一葉は、同人に加わり、「雪の日」「琴の音」などの作品を掲載します。

とはいうものの文芸誌に作品を掲載したところで、家計の助けにはなりませんでした。
売る物も少なくなり、母に嘆かれる日々。一葉は方向転換を図ります
小説で生計を立てることを辞め、商売を始めることにしたのです。
文学は糊口のためになすべきものならず」と、生活と文学を切り離していくことにしたのです。
大衆に迎合した、売るための「大衆小説」はやめて、自分の書きたい作品を書くこととしたのです。

文藝作家、樋口一葉の誕生。

1893年(明治26年)、売れるものはすべて売り払い、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町、大音寺前で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きます。

大音寺前での暮らしは、一年ほど続きます。
その頃につけた日記のタイトルは「塵の中」。
貧しい人々の吹き溜まりのような地域での暮らしを、一葉はそう表現しています。

ただ、この界隈で暮らしたことは、一葉の血となり肉となり、
たけくらべ」や、その他の傑作を生みだす素地となったのです。

1894年(明治27年)2月、文芸雑誌「文學界」に「花ごもり」を掲載します。

一葉の小説に、リアルな人物描写が描き出された初めての小説です。
そこには、良くも悪くも世の中はこういうものだという、大音寺前での暮らしで体得したリアルな人物描写が描かれています。

同年5月には、店を引き払い、大音寺前の長屋から、本郷丸山福山町の、ささやかな家賃三円の家へ引っ越します。
そして、あらためて小説の執筆に専念することを心に決め、絶縁していた半井桃水の許を訪ねて教えを乞うのです。

そして、生活も安定してきます。
中島歌子から、萩の舎を受け継いでほしい旨の話があったのです。
一葉は月々の報酬をもらって手伝いに通うことにきめます。
一道を持て世にたゝんとする」生活の第一歩がこのようにして始められたのです。

生活に窮することのなくなった一葉は、いよいよ才覚を表してきます。
同年12月、「文學界」に「大つごもり」を発表します。

これまでの作品は、頭の中で作り上げられただけの見ず知らずの架空の世界の物語でした。が、本作以降は、自分が実際に暮らし体験した現実的な世界が、よりリアルに描かれています。

才能を認められるに従い、経済的な支援も得られるようになってきます。
1895年(明治28年)1月、文芸雑誌「文學界」に「たけくらべ」の連載を開始します。

さらに、同年5月に「ゆく雲」、8月に「うつせみ」、9月に「にごりえ」、12月に「十三夜」と傑作を次々に発表してゆきます。
この頃の樋口家には、一葉の才能を慕って、「文學界」の同人仲間らが集うようになります。

そんな中、一葉の体は、当時では治療法がなかった肺結核に侵されており
1896年(明治29年)11月、樋口一葉は24歳の短い生涯を終えるのです。

SNSでシェアして下さい!

現在募集中の読書会イベント

YouTubeチャンネル

本コミュ読書会のYouTubeチャンネルです。
文学作品の朗読動画を配信しています!

Vol.155 朗読コンテンツ24-中原中也「秋の夜空」には、中也の未来への憧憬、そして暗い過去への悲しい想いが伺えます。

Vol.154. 朗読コンテンツ23-中原中也「サーカス」には、中也の乗り越えてきた苦難への想いが込められています。

Vol.153. 朗読コンテンツ22-宮沢賢治 「猫の事務所」には、賢治の言い知れぬ悲しみが込められています。

Vol.152. 朗読コンテンツ21-宮沢賢治 「雨ニモマケズ」