JDサリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」は、堕落した世界への決別を描いている。
- 海外文学
掲載日: 2023年08月01日
「バナナフィッシュにうってつけの日」は、1948年、サリンジャーが29歳の時、文芸雑誌「ザ・ニューヨーカー」に掲載された短編小説です。
舞台は、フロリダのリゾートホテル。主人公は、帰還兵であるシーモア・グラス。
彼は妻ミュリエルとバカンスでフロリダに来ています。
旅先のリゾートホテルで起こった出来事を描いたのが、この作品です。
サリンジャーの作品には、一文たりとも無駄な文章はありません。
すべての文章に意味がありますので、じっくり読んでいきましょう。
「バナナフィッシュにうってつけの日」を解説します。
では、冒頭から見ていきましょう。
ホテルの一室にいる妻のミュリエルは、電話を待っています。
待っている間何をしているかというと、
ポケット版の婦人雑誌の「セックスは楽しーもしくは苦し」と題する記事を読んだ。
「ナインストーリーズ」新潮文庫
櫛とブラシを洗った。ベージュのスカートのシミを取った。それからサックスで買ったブラウスのボタンの位置も付け替えたし、・・・(以下略)
お目当ての電話がかかってきましたが、彼女はと言うと、
電話は鳴るに任せたまま、小さな筆を動かして小指の爪のマニュキュアを続け、爪半月の輪郭をくっきりと仕上げた彼女は、おもむろにエナメル液の瓶の蓋をしめ、(中略)手を前後に振って風に当てた。
「ナインストーリーズ」新潮文庫
ここまでを読んで、ミュリエルがどんな女性かがわかってきます。
頭の中にあるのは、セックスと買い物と美容。
「俗」を絵にかいたような女性なのです。
さて、かかってきた電話の相手はミュリエルの母親です。
心配で心配で仕方がない様子。
シーモアが以前、交通事故を起こし、何やら大変なことになったことがあり、それを心配しているのです。
そして、シーモアが従軍中に精神を病んでしまい、いまだに自制力を保てないということもわかってきます。
第二次世界大戦に従軍した多くの若者は、あまりにもひどい殺戮を目にしたため、このように精神を病んでしまっていました。サリンジャー自身も全く同じ体験をしています。
さらに二人の会話から、母親もミュリエルに似たような女性だということもわかってきます。
さて、シーモアが傷ついたのは精神だけではないようです。
「彼はね、浜でただ寝そべってるだけよ。バスローブを脱ごうともしないのよ」
「ナインストーリーズ」新潮文庫
中略
「文身(いれずみ)を見られるのはいやだって言うの」
「あの人、いれずみなんかないじゃない。
それとも軍隊にいるときにしたのかしら?」
「いいえ、違うのよ」
具体的に記載はされていませんが、どうやら何らかの外傷があるようです。
さて、バスローブを着たままでビーチに寝そべっているシーモアのところへ、無邪気な少女シビルがやってきます。
「水に入らないの、シーモアグラス?」
「ナインストーリーズ」新潮文庫
突然、声を掛けられたシーモアは、バスローブの襟を押さえます。
何かを隠そうとしたのでしょうか。
女の子の呼びかけが、英文では「see more glass」となっています。
つまり、「もっと鏡を見なさい」と聞こえます。
あたかも、自分の姿を見なさいと言われたかのような、文章になっています。
そんな無邪気なシビルとの会話は、とても不思議な会話です。
話が全くかみ合っていません。
現実には存在しない架空の魚、バナナフィッシュを捕まえに行こうとシーモアが言ったり、シビルは、架空の街、ホヮリー・ウッドに住んでいると言ったりしますが、それが何事もなかったかのように会話が成立していくのです。
そして、二人はバナナフィッシュを探しに海に向かいます。
バナナフィッシュがどんな魚かというと、
「バナナがどっさり入っている穴の中に泳いで入っていくんだ。入るときはごく普通の形をした魚なんだよ。ところが、いったん穴の中に入ると、ブタみたいに行儀が悪くなる。ボクに知っているバナナフィッシュにはね、バナナ穴の中に入って、バナナを78本も平らげた奴がいる。」
「ナインストーリーズ」新潮文庫
「バナナ」という言葉から受けるイメージは、日本人とアメリカ人ではまるで違います。
「bananas」と複数形になると、「頭がおかしい」や「インチキなもの」「イカレタもの」のような意味合いが出てきます。
大量消費が始まる50年代のアメリカ、そして、その世界にどっぷり浸っているミュリエル。
ファッションやグルメにしか興味がわかないごく普通の人々のことを考えると、バナナフィッシュが何を意味しているかが解るかと思います。
そんなことをすると彼らは肥っちまって、二度と穴の外へは出られなくなる。
「ナインストーリーズ」新潮文庫
そして、その後は、「バナナ熱」に罹って死んでしまうというのです。
そんな、架空の魚であるバナナフィッシュを見たというシビル。
子供だからこそ見えたのでしょう。
そしてシビルは「さよなら」と言い残して去っていきます。
「バナナフィッシュにうってつけの日」ということは、俗でインチキな世界を毛嫌いするシーモアにとっては「最悪の日」。
それを踏まえると、衝撃的な結末は、浮かれた世の中へ、シーモアが決別を宣言したように思えてならないのです。
「バナナフィッシュにうってつけの日」は、戦場から帰還したサリンジャーがPTSDに悩まされ、それを乗り越えた後の作品です。
「バナナフィッシュにうってつけの日」を読書会で読み解きましょう。
「バナナフィッシュにうってつけの日」は、読み解くにはかなり骨の折れる作品です。
これを読み解くには、読書会が、まさにうってつけです。
皆さんで、全文を輪読して、細かく読み込んでいくことで、これまで気が付かなかった解釈が浮かび上がっ来ます。