JDサリンジャー「シーモア-序章-」には、サリンジャーの創作意図が描かれています。
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掲載日: 2023年07月24日
「シーモア―序章―(Seymour: An Introduction Stories)」は、1959年6月に文芸誌「ザ・ニューヨーカー」に掲載された150ページほどの中編小説。というよりはエッセイ。
サリンジャー40歳の時の作品です。
「シーモア序章」を解説します。
この作品の語り手は、バディ・グラース。40歳。
彼は、小説家でありグラース家の次男です。
この作品で、バディが語ろうとしているのは、兄、シーモア・グラスのこと。
なぜなら、シーモアが妻とフロリダに旅行中に拳銃で自殺してしまったからなのです。
架空の作家バディが、兄シーモアについて語るエッセイが、この作品です。
ただ、シーモアの性格を語るのは一筋縄ではいかないようです。
彼の性格は私の知る限りの、筋のとおるような簡素な記述にはあてはまらないのである。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
では、どうするかというと、
わたしの最初の計画はシーモアについての短編小説を書き、「シーモア第一部」と名付けることだった。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
そして、第二部、第三部と続けるつもりでした。それゆえの「序章」だったわけです。
でも、小説という形ではふさわしくないと気が付きます。
幼い頃から仲の良かった兄弟だけに、小説のような創作にすると偏見が入るからです。
わたしは紹介し、叙述し、形見やお守りを配布したいのだ。札入れを取り出して、スナップ写真を回覧したいのだ。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
つまり、ありのままのシーモアを見せたいのです。
とはいうものの・・・、
わたしは、読者に、いろいろとたくさん下手な話をして聞かせたいのである。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
わたしは実に多くのことを、実に早くから語っているし、カタログのように並べ立てている。
ということは、これ以前にシーモアのことを作品にしているのです。
それは、どんなものかというと・・・、
私がこれまでに発表した唯一の長編小説の若い主人公にシーモアのことがたくさん入っているのではないか、(中略)・・と教えてくれたのである。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
サリンジャーの唯一の長編と言えば、「ライ麦畑で捕まえて」です。
主人公のホールデンには、シーモアが投影されているというのです。
ここで、ハタと気が付きました。
この作品の語り手は、バディ・グラースは小説家です。
サリンジャーを代弁していると言われています。
シーモアもサリンジャーの分身ともいえます。
また、「ライ麦畑で捕まえて」の主人公ホールデンも、サリンジャーに重なっています。
とすると、サリンジャーがこれまで執筆してきた作品は、すべからく自分自身の想いのスケッチなのではないでしょうか。
さぁ、ここから、シーモアについてのショーケースが始まります。
彼が愛してやまない中国や日本の詩のこと。
家族とどんな風に過ごしてきたか。
生き方や、死に多大な影響を与えた先祖のこと。
バディが書いた作品への批評。
さらには、シーモアの容姿のこと。
髪の毛や、目、鼻。
とりとめのないエピソードが延々と続きます。
そう、これは、シーモアが自殺した原因がなんであるかを読者である我々に委ねているのでしょう。
サリンジャー本人にも、明確には説明ができないのではないでしょうか。
そこで、冒頭のカフカの言葉に戻ると、サリンジャーの言わんとすることが解るような気がします。
俳優たちと同席すると、いつもわたしは、自分が今まで俳優たちについて書いたことはほとんど嘘であったという気がしてきて、ぞっとする。わたしは彼らのことを、ひたむきな愛をもって書きはするが、能力が変化するために嘘になるのだ。
「シーモア―序章―」(新潮文庫)
人間は、毎日様々な体験をし、日々刻々と変化していきます。
今日思っていたことと明日思うことは違うものです。
これがまさに実存主義です。
カフカは、苦悩していました。
しかも、苦悩の種は様々に変化していきます。
だから、どんなことに苦悩しているかを伝えるのは一筋縄ではいきません。
単純ではないのです。
だから、様々な物語を作って自らの苦悩を伝えているのです。
そして、こんな生活を続けていたらこんな風になってしまうよ、と叫んで
救いを求めているのです。