読書会情報はコチラ

オンライン読書会のコミュニティ「本コミュ読書会」

国木田独歩「忘れえぬ人々」は、まるで映画でも見ているかのような素晴らしい構成の傑作です。

国木田独歩「忘れえぬ人々」は、まるで映画でも見ているかのような素晴らしい構成の傑作です。

掲載日: 2022年10月09日

「忘れえぬ人々」は、1898年(明治31)に雑誌「国民之友」に掲載された短編小説。
国木田独歩が作家活動を始めた、ごく初期の頃の作品です。
この頃、国木田独歩は、大分県の佐伯市から東京に戻っています。

「忘れえぬ人々」のあらすじ。

無名の文学者が、旅先の宿屋で出会った画家の青年に、これまで出会ってきた忘れることのできない人々の思い出を語って聞かせるというお話。
フランスの文豪バルザックの作品のように、市井の人々の様子をリアルに描いている作品です。

「忘れえぬ人々」を解説します。

この作品を読んで、まず驚かされるのは、今年発表された小説だと言われても何の違和感もなく読める文章。実に読み易いのです。
よく考えても見てください。国木田独歩は明治末期に作品を残した作家です。泉鏡花や夏目漱石と時を同じくしているのです。この文章の読み易さは、尋常ではありません(;^_^A

ということを踏まえて読み込んでいきましょう。
まずは、冒頭。作品の舞台となる場所の描写から。

多摩川
たまがわ
の二子
ふたこ
の渡しをわたって少しばかり行くと溝口
みぞのくち
という宿場がある。その中ほどに亀屋
かめや
という旅人宿
はたごや
がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱
いんうつ
な寒そうな光景を呈していた。昨日
きのう
降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根
わらやね
の南の軒先からは雨滴
あまだれ
が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋
わらじ
の足痕
あしあと
にたまった泥水にすら寒そうな漣
さざなみ
が立っている。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

寒々とした様子が目に浮かぶようです。特に「草鞋の足痕にたまった泥水にすら寒そうなさざなみが立っている。」という箇所がいいですねぇ。

続いて、宿屋の中の様子が描かれます。

旅人宿
はたごや
だけに亀屋の店の障子
しょうじ
には燈火
あかり
が明
あか
く射
さ
していたが、今宵
こよい
は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸
がんくび
の太そうな煙管
きせる
で火鉢
ひばち
の縁
ふち
をたたく音がするばかりである。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

と、そこへ、

突然だしぬけに障子をあけて一人ひとりの男がのっそり入はいッて来た。長火鉢に寄っかかッて胸算用むなさんように余念もなかった主人あるじが驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間どまを三歩みあしばかりに大股おおまたに歩いて、主人あるじの鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆きゃはん、草鞋わらじの旅装なりで鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘こうもりを携え、左に小さな革包かばんを持ってそれをわきに抱いていた。
『一晩厄介になりたい。』

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

まるで映画でも見ているかのように、光景が目に浮かんできませんか?
実に見事な文章構成です。

そしてこの後、客の男と宿の主人とのやり取りがユーモラスに描かれていきます。

主人あるじの言葉はあいそがあっても一体の風ふうつきはきわめて無愛嬌ぶあいきょうである。年は六十ばかり、肥満ふとった体躯からだの上に綿の多い半纒はんてんを着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々ふくぶくしい顔の目まなじりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺やじさんだなと客はすぐ思った。
 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人あるじは、
『七番へご案内申しな!』
 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶あいさつもしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。主人あるじの言葉はあいそがあっても一体の風ふうつきはきわめて無愛嬌ぶあいきょうである。年は六十ばかり、肥満ふとった体躯からだの上に綿の多い半纒はんてんを着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々ふくぶくしい顔の目まなじりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺やじさんだなと客はすぐ思った。
 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人あるじは、
『七番へご案内申しな!』
 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶あいさつもしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

宿屋の主人の描写は、さらに続きます。

真っ黒な猫ねこが厨房くりやの方から来て、そッと主人あるじの高い膝ひざの上にはい上がって丸くなった。主人あるじはこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱たばこいれの方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯ゆがすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
 膝の猫がびっくりして飛び下おりた。
『ばか! 貴様きさまに言ったのじゃないわ。』
 猫はあわてて厨房くりやの方へ駆けていってしまった。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

この後も、宿屋の主人のユーモラスな描写は続きます。
どうしてそこまで主人を描き続けるのか。これは最後に理由がわかりますのでお楽しみに(;^_^A

さて、主人の描写が終わり、こんな文章が挟み込まれます。

店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音が微かすかにした。
『もう店の戸を引き寄せて置きな、』と主人あるじは怒鳴って、舌打ちをして、
『また降って来やあがった。』
と独言ひとりごとのようにつぶやいた。なるほど風が大分だいぶ強くなって雨さえ降りだしたようである。
 春先とはいえ、寒い寒い霙みぞれまじりの風が広い武蔵野むさしのを荒れに荒れて終夜よもすがら、真まっ闇くらな溝口みぞのくちの町の上をほえ狂った。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

この文章があることで、時の経過が表現できるのです。
これはまるで映画の場面転換のようではないですか。
もう、唸ってしまうほどの巧みな構成です。

というわけで、場面は変わり・・・、

七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々
こうこう
と輝いている。亀屋で起きている者といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二人の客ばかりである。

国木田独歩「忘れえぬ人々」(青空文庫)

宿で、隣同士の部屋になった縁で言葉を交わす無名の文学者と、無名の画家。
文学者の持参した原稿には
これまで出会った「忘れえぬ人々」が描かれています。
これを、文学者が、語っていくのです。

では、「忘れえぬ人々」とは、どういう人かというと、
文学者曰く、
「親とか子とか、または朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。
忘れてかなうまじき人といわなければならない、
そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、
本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、
しかもついに忘れてしまうことのできない人がある」

つまり、覚えていなくてもいい赤の他人の中には
ついつい忘れることができないような人がいる、というわけです。

これは、まさに独歩が他の作品で描いている人々そのもののようです。
この物語の文学者とは、国木田独歩自身なのでしょうか。

さて、この作品の最後の二行。
これを読むと、あなたは思わず膝を打つことになるでしょう(;^_^A

現在募集中の読書会イベント