
上田秋成「雨月物語-夢応の鯉魚」は、自由を謳歌できる生き方を描いた物語、だと思う。
- 日本文学
掲載日: 2025年06月22日
「雨月物語」は、江戸時代後期の1776年(安永5年)に出版された作品。
9編の短編からなる幻想的な怪異小説集です。「夢応の鯉魚」は、巻の二に収められています。
太宰治が「夢応の鯉魚」を読んで「魚服記」を書くに至ったと言っています。
魚服記といふのは支那の古い書物にをさめられてゐる短かい物語の題ださうです。それを日本の上田秋成が飜譯して、題も夢應の鯉魚と改め、雨月物語卷の二に收録しました。
私はせつない生活をしてゐた期間にこの雨月物語をよみました。夢應の鯉魚は、三井寺の興義といふ鯉の畫のうまい僧の、ひととせ大病にかかつて、その魂魄が金色の鯉となつて琵琶湖を心ゆくまで逍遙した、といふ話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思ひました。魚になつて日頃私を辱しめ虐げてゐる人たちを笑つてやらうと考へました。
私のこの企ては、どうやら失敗したやうであります。笑つてやらう、などといふのが、そもそもよくない料簡だつたのかも知れません。
太宰治「魚服記に就て」(青空文庫)
太宰の創作意欲をいたく刺激したこの作品。いったいどんな物語が描かれているのでしょう。
「夢応の鯉魚」のあらすじ
時は、平安時代の初め、醍醐天皇が古今和歌集を編纂したり、菅原道真が島流しとなった時のこと。
主人公は鯉の絵を描く僧侶。病で亡くなるが三日後に生き返り、その間に起こった不思議な出来事を描いています。
「夢応の鯉魚」を読み込んでいきましょう。
まずは冒頭。ここでは、物語の時代や、主人公の紹介が書かれています。
六十代醍醐天皇の延長年間、三井寺に興義(こうぎ)という僧があった。絵が上手だったので、名人という評判を世間から立てられていた。彼がつねづね画くところは、ふつうの画家のように仏像・山水・花鳥などを主とするのではなく、寺の勤めのひまがある日には琵琶湖に小舟をうかべて、網をひいたり釣をしたりする漁師に金銭をやり、とった魚を買いもとめてもとの湖に放し、その魚の泳ぎまわるのを見ては、その姿態を画いていたので、年とともにその技は精細巧妙の域に達したのである。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
時代は平安時代。主人公の僧侶、興義は絵の名人です。
どのような絵を描くかというと、自由に泳ぎ回る魚のさまを好んで描いているのです。
ある日のことです。興義に災厄が降りかかってしまいます。
ある年、病気になって、七日間寝ついたが、急に眼をとじると、呼吸がとまって死んでしまった。弟子や友だちがあつまって、その死を嘆き惜しんだが、ただ胸のあたりにすこしばかり暖かさがのこっているので、もしかすると蘇生するかもしれないと思って、興義のまわりをとりまいて見守りながら、三日をすごしたところ、手足がすこしうごき出すかとみるまに、急に長いためいきをついて、眼をひらき、まるで眠りからさめたように床の上へ起きあがって、人々にむかい、「私が人事不省になってからもう大分たったようだ。幾日ぐらいたっただろうか」とたずねた。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
病のために死んでしまい、三日目に蘇った興義。
不思議なことを話し始めます。
「だれでもよいから、ひとり、檀家の平の助の殿のお邸へまいって、つぎのようにはなしなさい。『興義が不思議にも生きかえりました。殿にはいま酒を酌み、その肴に新鮮ななますをつくらせていらっしゃるようですが、しばらくその酒宴を中止して、寺においでいただきたい。世にもまれなめずらしいはなしを申しあげたいと存じます』。そういって、先方の人々の様子をよく見なさい。いま私のいったことにちっともちがうまいよ」という。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
使いの者が先方の家へ行ってみると、興義の言葉どおり酒を酌み交わしている。
不思議に思った一同は、宴をすぐに中止し興義の元へ行きます。
興義は話を始めます。
「まあ、ためしに私のいうことをお聞き下さい。貴殿は、あの漁師の文四に魚を注文なさったことがございますか」とたずねた。これをきいて、助は驚き、「たしかに、御僧のいうとおりでござる。どうして御存じでいらっしゃるのか」という。興義は、「あの漁師が、一メートルあまりの魚を籠にいれて、貴殿のお邸の門を入ったとき、貴殿は御令弟と表座敷で碁を囲んでいらっしゃった。掃守がその傍にすわって、大きな桃の実をたべながら囲碁の勝負を観戦していた。そして、漁師が大きな魚をもってきたのをよろこんで、高坏に盛った桃を与え、そのうえ杯を与えて十分おのませになった。やがて調理人が得意顔で魚をまな板にのせて、なますにしましたが、この一部始終、私のいうことは違っていないでしょう」という
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)

漁師から魚を買った時の様子をつぶさに語る興義。
皆は驚いてしまいます。
興義は、事の次第を語ります。
「私はこのほど病に苦しんで、とても堪えられないほどだったので、自分が息絶え人事不省におちいったのも知らず、からだが熱っぽくて心地が苦しいのをすこしさまそうと、杖にすがって門を出ると、病気もだんだんよくなるようで、ちょうど籠の鳥が大空に解放されたようなのびのびした気持になりました。そこで山といわず里といわず足にまかせてあるいて行くうちに、今度は湖畔に出ました。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
病のために一度死んだ興義。
彼の魂は体から抜け出て、湖まで来たというのです。
そして、何が起こったか。
魚がのびのびと泳げるのをうらやむ気持がおこりました。そのとき、すぐそばに一ぴきの大魚がいて、私に、『あなたの願いをかなえてあげることは、きわめてやさしいことです。お待ち下さい』といって、そのままふかい水底へ去って行った
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
1匹の大魚が、興義の望みをかなえてあげようというのです。
しばらくして、冠をつけ装束そうぞくを着た人が、その大魚にまたがり、大勢の魚族をひきいてうかんできて、私に向かってこういうのです。『湖の神の仰せがあった。老僧はかねがね放生の功徳が多い。そして、いま湖に入って、魚の如く泳ぎまわることを願っている。そこでしばらく金色の鯉の服を授けて、水中のたのしみをさせてあげよう。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)
鯉になった興義。
思う存分に湖を泳ぎ回ります。その様が実に見事な文章でつづられています。
長等山(ながらやま)の山おろしに吹かれて立ちさわいでいる浪に身をのせて、志賀の浦の汀(なぎさ)に泳いで行くと、徒歩で行く人が着物の裾を濡らすほど汀近くを往来するのにおどろかされて、高い比良の山影が映るふかい水底にもぐろうとするが、身をかくすこともむつかしく、夜ともなれば堅田(かただ)の漁火にひとりでにひきよせられて近寄って行くのも、まるで夢心地でした。夜中の湖上にかげをうつす月は、鏡山の峰に鏡のごとく澄みわたって、多くの港々のすみずみまでもくまなく照らし出し、その情景は趣ふかいものでした。沖の島から竹生島(ちくぶじま)の方に泳いでいくと、波にうつる朱塗の玉垣には、ほんとうにびっくりしました。そうしているうちに夜が明け、伊吹山から吹きおろす山風に送られて、朝妻の渡船も漕ぎ出したので、いつのまにか蘆の間でまどろんでいた眠りをさまされ、矢橋(やばせ)の渡し舟の船頭があやつるさばきあざやかな水なれ棹から身をかわして、瀬田の橋の方へ泳いでいくと、こんどは橋番からなんどもなんども追いたてられたのです。日ざしが暖かなときは水の上にうかび、風のはげしいときはふかい水底で遊びました。
上田秋成「雨月物語(現代語訳)」(青空文庫)

この文章は、現代語よりは原文を読むことをお勧めします。
以下に原文を記載しておきますので、ぜひ声に出して読んでみてください。
まるで短歌でも読んでいるかのように、実にリズムが良いことがわかります。
見事な文章です。
まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大湾(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳のすそぬらすゆきかひに驚されて、比良の高山影うつる、深き水底(みなそこ)に潜(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かたた)の漁火(いさりび)によるぞうつつなき。ぬば玉の夜中の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に清(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくておもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣(かき)こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、芦間の夢をさまされ、矢橋(やばせ)の渡(わたり)する人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋(ちひろ)の底に遊ぶ。
上田秋成「雨月物語(原文)」(青空文庫)
さぁ、その後、興義に何が起こったか。
ぜひ、ここから先は本文を読んで味わってください。
上田秋成が生きた江戸時代は、儒教的な考え、封建的な考えに支配された世の中。
そこに、秋成は生きづらさを見出していたのでしょう。
自分の描きたい絵だけを描いて暮らし、さらには、鯉となって自由気ままに泳ぎ回る。
そんな自由な生き方の描写に、太宰は憧憬の念を抱いたのではないでしょうか。