泉鏡花「婦系図」は、この上なく美しい文章を味わえる至高の大衆娯楽小説です。
- 日本文学
掲載日: 2025年01月14日
泉鏡花「婦系図」は、1907年(明治40年)1月1日から4月28日「やまと新聞」に連載された長編小説。
これまでにも、6度も映画化されています。
また、数えきれないぐらい舞台化やテレビドラマ化もされている名作です。
「婦系図」は、こんな小説です。
泉鏡花と言えば、幻想的な作品で有名ですが、「婦系図」は明治時代の青年と芸者の悲恋を描いた花柳小説です。
そして決して高尚な純文学作品ではありません。当時の新聞読者を楽しませるための娯楽作品、大衆小説です。
大衆小説と聞いて思い浮かべることは、読み手を飽きさせない奇抜なストーリー展開です。
面白さが真骨頂で、文章表現の美しさなんて二の次でしょう、なんて思われるかもしれません。
ところが、泉鏡花は平凡な文章は書きません。
まるで詩や歌の歌詞でも読んでいるかのような美しい文章を書くのです。
「婦系図」は、ストーリーの面白さもさることながら、味わうべきは文章の美しさだと私は思います。どんなに素晴らしい文章が書かれているのかを、少しだけご紹介していきたいと思います。
鯛、比目魚
この段では、主な登場人物の紹介がなされます。
まず登場するのは「婦系図」主役の一人「お蔦」。
素顔に口紅で美
いから、その色に紛
うけれども、可愛い音
は、唇が鳴るのではない。お蔦
は、皓歯
に酸漿
を含んでいる。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
お蔦がホオズキを鳴らしています。
すると、ホオズキの音に呼応するかのように、どこからともなく、コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。
四辺
を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽
な音
にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
どうやら、声の主は、溝板の下に隠れたカエルの様です。
ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線
の胴をうつかと思われつつ、静かに長
くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
「蝶蝶の羽で三味線の胴を打つような音」がする、そんな「静かな春の日差しがお蔦の袖に射している」、とはなんと風流な表現でしょうか。
と、そこへやって来たのは魚屋の若い衆。あだ名を「め組」という。
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄の可い島田の女中が、逆上せたような顔色で、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
とお蔦は振向いて低声で嗜め、お源が背後から通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
目配せをすると、お源は莞爾して俯向いたが、ほんのり紅くした顔を勝手口から外へ出して路地の中を目迎える。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
女中のお源が顔を赤くしていることから、魚屋のめ組に気があることが伺えます。
さて、当のめ組は朝から飲んでいるようです。
例によって飲こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、奥様、へへへへへ。」
「お止しってば、気障じゃないか。お源もまた、」
と指の尖で、鬢をちょいと掻きながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様が、江戸に在るものかね。」
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
お蔦は「奥さん」と呼ばれるのを遠慮がちにしているような様子です。
「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様はおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可い……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦じゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
と眦の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿やかに見えたので、め組もおとなしく頷いた。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
どうやら、お蔦は正妻ではないということが、この会話から判ってきます。
見知越
「見知り越し」というのは、顔見知りということ。
誰が誰を知っているのかが、語られますが、それは、追々。
この段では、もう一人の主人公の「早瀬主税」が登場します。
お蔦たちが台所にいると、玄関では主税が二階から降りてきたようです。
続いてドンドン粗略に下りたのは、名を主税という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
どうやら「河野」という人物が二階に来ていたようです。
その後ろ姿を見ていため組は、何かに気が付きます。
「おやおやおや、」
調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
「可訝しいぜ。」
と急に威勢よく引返して、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親かね、静岡だって、故郷あ、」
「ああ。」
「家は医師じゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、め組。」
とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
泉鏡花「婦系図」(青空文庫より)
め組が「見知り越し」なのは、河野の母親です。
何か、由々しきことが起こりそうな雰囲気が漂ってきました。
と、このような具合に主要な登場人物がひと段ごとに登場していきます。
これもなかなか面白い構成です。